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館報「開港のひろば」バックナンバー


資料よもやま話2
持丸兵輔とその資料


写真(1) 持丸兵輔(1843〜1923)『群制有終記念帖』より


生見尾村長・持丸兵輔

 1889(明治22)年、生麦・鶴見・東寺尾の三か村は合併し、生見尾(うみお)村(現鶴見区)が誕生した。初代村長には東寺尾村荒立の名望家、持丸兵輔(ひょうすけ) 【写真(1)】 が就任した。彼は1894年に退任するが、1897年に再選、以後1911年まで、合計して20年近くも村長職にあり、その在任期間の長さは歴代生見尾村長のなかでも随一であった。

  明治期の生見尾村は、独立性の強い三か村が合併して成立したため、各旧村(大字)の利害が対立して、初期の村政運営に支障を来すことが多かった。純農村地帯の東寺尾、漁村で村内最大の人口を有する生麦、商業と早くから蔬菜類栽培の盛んな鶴見、と、各大字は生業を異にしていた。また大字毎に村会の議席数が配分されており、村会議員は全村の代表者というより、各大字の代表者としての性格を強く持っていた。

「開港のひろば」第81号
2003(平成15)年7月30発行

企画展
遊楽都市 横濱
−芝居・映画 エトセトラ
「横浜を楽しむ−祭り・役者・封切館」
展示余話
「地方名望家」ということ
資料よもやま話1
横浜中央電話局を建てた人物
資料よもやま話2
持丸兵輔とその資料

生見尾村長・持丸平輔
持丸と関口昭知・佐久間権蔵
「持丸和久文書」
閲覧室から
新聞万華鏡(12)
資料館だより


 そんな中で、持丸は、従来小学校については生麦、鶴見に各1校あり、東寺尾は隣村の旭村馬場の学区域であった状態を改変して、1891年、生麦に尋常高等生見尾小学校を設立した。彼は教育事業に熱心で、明治30年代には同小学校の増築を行ったほか、隣村の子安小学校や旭村小学校の新築費にも寄附を寄せ、1909年には神奈川県知事から表彰を受けている。

  また生麦地先海面の漁業権獲保にも尽力している。従来、羽田沖から子安にかけての漁場は入会地で、生麦の漁民は自由に貝類の採取などを行っていた。しかし1900〜01年にかけて、子安村の加山昇が生麦地先の埋立を行い、また、1902年に漁業法が発布されて沿岸の各村が自村の地先海面を養殖場として出願し始めると、生麦の漁民たちの漁場は著しく制限されることとなった。そこで持丸は、1903年に生麦漁業組合を成立させ、他村の貝養殖場免許反対運動を行ったり、従来の入会地を理由に、生麦地先から大師河原地先までの貝養殖に適する海面、凡そ150万坪の免許を出願し、潮田地先迄の50万坪が認可された。1905年7月には持丸は漁業組合の組合長に就任している。また生麦地先には明治20年代頃から海苔養殖が盛んになり、2万坪を超える広さに及んでいたが、各漁場の権利の多くは隣村、町田村の住民の手に渡っていた。そこで持丸は、漁業法の公布を受けると、これらの海苔養殖場の権利を買い取った。

  このほか、生見尾村農会長として、東寺尾に野菜類の栽培を奨励し、横浜市中に寺尾大根の名を博したことも彼の功績である。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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