そんな中で、持丸は、従来小学校については生麦、鶴見に各1校あり、東寺尾は隣村の旭村馬場の学区域であった状態を改変して、1891年、生麦に尋常高等生見尾小学校を設立した。彼は教育事業に熱心で、明治30年代には同小学校の増築を行ったほか、隣村の子安小学校や旭村小学校の新築費にも寄附を寄せ、1909年には神奈川県知事から表彰を受けている。
また生麦地先海面の漁業権獲保にも尽力している。従来、羽田沖から子安にかけての漁場は入会地で、生麦の漁民は自由に貝類の採取などを行っていた。しかし1900〜01年にかけて、子安村の加山昇が生麦地先の埋立を行い、また、1902年に漁業法が発布されて沿岸の各村が自村の地先海面を養殖場として出願し始めると、生麦の漁民たちの漁場は著しく制限されることとなった。そこで持丸は、1903年に生麦漁業組合を成立させ、他村の貝養殖場免許反対運動を行ったり、従来の入会地を理由に、生麦地先から大師河原地先までの貝養殖に適する海面、凡そ150万坪の免許を出願し、潮田地先迄の50万坪が認可された。1905年7月には持丸は漁業組合の組合長に就任している。また生麦地先には明治20年代頃から海苔養殖が盛んになり、2万坪を超える広さに及んでいたが、各漁場の権利の多くは隣村、町田村の住民の手に渡っていた。そこで持丸は、漁業法の公布を受けると、これらの海苔養殖場の権利を買い取った。
このほか、生見尾村農会長として、東寺尾に野菜類の栽培を奨励し、横浜市中に寺尾大根の名を博したことも彼の功績である。
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