佐久間権蔵の住む鶴見村は、明治22年、生麦・東寺尾の二か村と合併して生見尾(うみお)村となったが、佐久間は定数12の村会議員の一人に選ばれた。神奈川県の郡制施行は32年だが、施行時と大正8年からそれぞれ4年間、郡会議員・郡参事会員をつとめた。こうした公職のほか、曹洞宗大本山総持寺の鶴見移転に際し、村長持丸兵輔、及び醤油醸造業を営む資産家で村議の中西重造とともに用地買収委員を委嘱されたのも、名実ともに同地の名望家故であったろう。また、実業家浅野総一郎が、鶴見地域での事業への協力を依頼するため、自宅に招き歓待したのも、佐久間と中西であった(大正5年5月18日)。
「檀家総代及名望家御届」明治40年9月29日 大本山總持寺所蔵
展示では、総持寺移転の一コーナーを設けたが、そこに「勧募委員」選任の関係文書を出陳した。資料は、大本山総持寺宝物殿が所蔵する「御移東文書」中の「檀家総代及名望家御届」、明治40年9月29日付、青木町本覚寺住職の届書である(写真)。総持寺再建には、広大な敷地の買収・諸堂宇の建築など膨大な資金を要し、そのため東京芝公園内に再建事務本部を設け、1万を越える全国各地の末寺の檀家総代や世話人を勧募委員に任命し、広く浄財の寄付を募ることにした。本覚寺は、幕末期最初のアメリカ領事館が設けられたことでも知られる。当初は総代3名だけを届けたが、再調査のうえ6名を加えて再提出したのだという。彼らは、勧募委員を委嘱するに相応しい檀家中の「名望家」と考えられる(別表参照)。檀家には、関内の貿易商や市街地で手広く土地経営を営む地主など、裕福な者も多く、6名中の5人は『横浜成功名誉鑑』(明治43年)に掲載された紳商・紳士であった。届書に、原田久吉は申込み額千円のところ既に部分納入済みとあり、明治32年暮れに全焼した同寺の再建費用の大半は原田が寄付したという。
名望家の名望家たる資格は、資力だけではない。一定の資産や教養に加え、人望を集め得る名望家こそが真に地域の近代化や振興に指導的役割を果たし得る。家の歴史や伝統、地域との関わり、そして「佐久間権蔵日記」の記録にその具体例を見るのである。
(佐藤 孝)
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