図2 中山広吉(中山辰夫氏所蔵)
中山が入省した頃の逓信省営繕には、新進気鋭の建築家たちが顔を揃えており、山田守や吉田鉄郎といった、日本を代表するモダニズム建築家たちが、当時の中山の先輩であった。
ただし、横浜中央電話局のデザインは、純然たるモダニズムというよりは、震災前の様式建築から昭和のモダニズム建築へといたる、その過渡期に位置している。様式建築のオーダー(古典主義様式の柱)を表したかのごとく、外壁に柱型を残している点については、中山自身、「私としては必ずしも、ガラスの大きい真白な建物が良いとは思っておりませんでした。」(『郵政建築』307号)と回想しているし、「その時分は柱型が出ていないと図面が通らないんですよね。全部は任せないですからね。それで仲々係長のハンコをもらうのが難しかったですね。」(同上)との言葉からは、逓信省のなかでも建築の形式性が重視されていたことがわかる。
それよりも、当時のエピソードからうかがえるのは、細部に対する丁寧な気配りである。中山は、横浜の前に東京中央電話局の局舎(昭和2年竣工)を手がけているが、そこでは、交換手の休憩室にはじめて絨毯を敷き、次官から贅沢だとして撤去されたという。
横浜中央電話局では、現在、都市発展記念館の常設展示室となっている4階部分が、交換手の宿直室や休憩室などで占められていた。図3に見える角地部分の4階窓にカーテンが掛かっているのが見えるが、この場所が交換手の休憩室である(図4)。東京の前例があるためか、床はリノリウムであるが、天井や時計回りの装飾などは、交換手たちが少しでも休まるようにとの気配りであった。
また、当時の職員の話によると、宿直室どうしの間仕切りを取り払うと、大部屋ができたという。本町通りに面している並びがすべてひとつの大空間としてつながるわけであるから、壮観であったろう。
図3 竣工当時の外観((株)NTTファシリティーズ所蔵)
図4 4階交換手休憩室(同上)
玄関脇の大きな石の球についても、触れておきたい。先般、旧電電公社の営繕に長く勤められ、生前の中山広吉をよく知る向井覚氏から、興味深い話を聞くことができた。あの石球は、下の台も含めて一体の石から切り出して磨き上げたものだというのである。球と台を別々に切り出して繋げたとしても、いずれ繋ぎ目のところから駄目になる。台と一体化していればその心配はないというのである。ひとつの石から切り出すとは、贅沢な施工であるが、中山自身「よくぞ、あの時代にあそこまでやらせてくれたものだ」と、のちに語っていたという。この石球は、今も当時のままである。
現在では、ずいぶんと手を加えて新しくなった部分が多いが、長く建物を使い続ける以上、避けられないことである。それでも、「中山さんが生きていたら、この建物を見てきっと喜ばれたことでしょう。」氏の言葉が、今も耳に残っている。
資料調査にあたっては、(株)NTTファシリティーズをはじめ、中山辰夫、中山政夫、向井覚、高濱久男、杉山正禧、小原誠の各氏にお世話になりました。記して謝意を表します。
(青木祐介)
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