当時横浜では、『横浜貿易新報』、『横浜毎朝新報』、『横浜日日新聞』などが発行されていましたが、それぞれ社屋が倒壊し、大きな打撃を受けました。『横浜貿易新報』は、9月13日、2頁の新聞を出したものの、本格的な復旧は翌大正13年1月26日でした。『横浜毎朝新報』は、10月4日から4頁の新聞を発行します。しかし、政友会系の『横浜日日新聞』は、廃刊に追い込まれました。
東京でも新聞機能は麻痺します。焼失をまぬがれたのは、『東京日日新聞』、『報知新聞』、『都新聞』と英字紙『ジャパン・タイムス』のみでした。その各社も活字が破損し、停電のため印刷が思うようにいかず、すぐには通常どおりの新聞は発行されませんでした。当時は新聞が唯一の報道機関であり、新聞が発行されないことは社会に大きな影響を与えました。
そこで大阪に本拠地をおき、東京に進出している『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が活躍します。
震災の直後の『大阪毎日新聞』9月2日付日刊の一面を見てみましょう。「1日正午間近に起こった地震は関東、東海方面において未曾有の大被害を生じた、何分にも電信電話が絶滅しているのでその詳細を読者に報じ得ぬは遺憾であるが左に記載する所は各地の無線局へ達した電報と鉄道関係によって報ぜられた情報の総合である。」とした上で、「横浜の大建築物殆ど倒壊し尽くす/海嘯起り流失家屋無数」(無線午後7時20分着、無線午後8時半着)、「横浜市は殆ど全滅せり(潮岬無線局着電)」(午後6時45分銚子無線局の情報)、「横浜浅野両ドック破壊/大阪商船支店も崩壊焼失/ロンドン丸接触して破損」、「死傷者何万とも数知れず/大阪兵庫両知事大阪市長へ食糧送付方依頼」などの記事が掲載されています。
また、この日は同じ日付でも3種類の版が閲覧できます。一面を見ると、一番先に発行された版は、「東海方面の大地震」の見出しで、沼津町、横浜市、東京市の状況をとりあげていますが、他の2つの新聞には、「日本未曾有の大地震/東京、横浜は大火災大海嘯/関東、東海方面の被害甚大」という大きな見出しが中央に入り、横浜市、東京市の状況に主眼がおかれ、記事の内容も変わっています。
日を追って記事を見ていくことにより、被災の状況、情報入手ルートの変化などがわかります。
(上田由美) |