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館報「開港のひろば」バックナンバー


「持丸和久家文書」

 2002年、持丸兵輔の御子孫の方より資料の寄託を受け、現在「持丸和久家文書」として、当館閲覧室で公開している。総点数81点のうち、地図が50点と大半を占める。断片的な資料が多いものの、これまで旧生見尾村の資料としては、主に鶴見の佐久間家、生麦の関口家の資料が知られていたが、新たに東寺尾の持丸家の資料が加わることで、この地域の資料状況に厚みを加えることができた。ここではその一部を紹介してみたい。

 【写真(3)】は「東寺尾邑(むら)実測図」(部分)である。鶴見村・生麦村と合併する以前の東寺尾村全域を「五分十間」(縮尺1/1200)で描いたものである。村内は地番分けされた上で、田・畑・山林・宅地などの地目ごとに色分けされている。宅地・寺社にはイラストが施されている。当時の典型的な谷戸村の農村風景を窺い知ることができる。作成年は、明治10年前後と推測される。

写真(3)地図のほぼ中央の宅地が、持丸の屋敷地

「開港のひろば」第81号
2003(平成15)年7月30発行

企画展
遊楽都市 横濱
−芝居・映画 エトセトラ
「横浜を楽しむ−祭り・役者・封切館」
展示余話
「地方名望家」ということ
資料よもやま話1
横浜中央電話局を建てた人物
資料よもやま話2
持丸兵輔とその資料

生見尾村長・持丸平輔
持丸と関口昭知・佐久間権蔵
閲覧室から
新聞万華鏡(12)
資料館だより


 いま一つ東寺尾の生業を示す資料としては、「氷採取営業願」がある(作成年は明治30年代初め頃か)。この資料は既に『鶴見区史』(鶴見区史刊行委員会、1982年)で引用されているが、当時の採氷池の構造をよく伝えているので、敢えてここで紹介しておく。

  採氷池の所在地は東寺尾967番地(持丸兵輔所有)で、道路から100間余も離れ、「汚物捨場置場其他不潔ノ箇所ハ之ナク候」場所である。池の広さは85坪、深さは2尺で、その周囲を厚さ1寸、高さ2尺4寸の松の板で囲み、汚水の浸水を防ぐための幅3尺の小溝を廻らせる。また底面は漆喰敲とする。この採氷池に、付近の井戸から径3寸の陶管で引水する。また氷を採取する際に残った水を排水するための径5寸の陶管も設ける。

  東寺尾以外の地域の資料としては、「生見尾村鶴見地図」、及び生麦切図がある。鶴見地図は、大字鶴見の全地番が書き込まれた上に地目ごとに色分けされ、地図のほぼ中央を東海道線と京浜電気鉄道(現京浜急行)が走っている。また生麦切図は概ね字ごとに13枚に分かれており、それぞれ各地番の地目(着色)、等級、坪数が書き込まれている。いずれも保存状態は極めて良好である。やや作成・描写年代は異なるが、先の「東寺尾邑実測図」とあわせれば、当時の生見尾村の地番や土地利用などの概要を把握することができる。

  このほか、明治21年度の東寺尾・西寺尾・北寺尾・馬場の教育補助費各村負担割合や、1904年1月に持丸兵輔が平沼九兵衛等と計画した「埋立工事(子安沖か)施工順序詳細」【写真(4)】などの資料が残されている。

  最後に、貴重な資料をご寄託頂く上でご配慮を賜わりました、持丸和久氏、持丸寿恵子氏、鶴見歴史の会の四元宏氏に、心からお礼申しあげます。

(松本洋幸)

写真(4)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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