持丸と関口昭知・佐久間権蔵
このように明治20年代後半から30年代にかけて多くの功績を残した持丸であったが、村政の運営は常に順調だったわけではない。村議会の議席配分などをめぐって、大字間の対立が生じていたからである。1905年の村長選挙では生麦選出の村会議員等は持丸の多選に異議を唱え、翌年には村長不信任案を提出するまでに至る(「関口家文書」中の「村長選挙一件」)。このほか、持丸が生麦地先の海苔株を独占して漁業組合を支配して利益を得ている、生麦を通過する省線の複々線化に際しては沿線の土地を法外な低価格で鉄道院に売却している、などといった生麦住民から持丸に対する不満の声も挙がっていた(『顛末録』)。
こうした生麦側の急先鋒にいたのが関口昭知であった。彼は幕末から明治後期にかけて膨大な日記を記したことでも知られている。関口は持丸初代村長の下で助役をつとめたこともあったが、明治30年代後半以降、村会や、生麦地先の土地・海苔株の権利所有をめぐって持丸と激しく対立した。両者の対立は単なる個人的な対立から、村内の東寺尾と生麦という大字間の対立となっていった。
この対立の融和にとくに腐心したのが鶴見の佐久間権蔵であった。先述の1905年の村長選挙では両者の仲介に入った。彼は比較的持丸に好意的で、持丸が村費横領の容疑で根岸刑務所に収監された際も同情を寄せ、その特赦の際(1916年)には持丸邸に直ぐに駆けつけ、喜びを分かち合っている。また関口が持丸の収監中に、持丸所有の生麦地先の土地及び海苔株の名義変更を迫った際にも、佐久間は、兵輔の息子・三千蔵(みちぞう)を助けつつ、持丸名義をまず村名義に変更することなどの妥協案を提示して両者の和解を図ろうとした。
しかしその後も持丸と関口の反目は続いた。1917(大正6)年、生見尾村と鶴見川対岸の町田村との間で合併話が浮上し、合併委員会が設置されたが、この席で持丸は「当席に敵対人間と同列するは屑しとせず」(「佐久間権蔵日記」1917年4月23日)として席を立つ場面があった。ここでも調停に入ったのは佐久間で、鶴見神社の黒川荘三とともに持丸・関口の間を何度も往復、ようやく5月9日手打式となった。以下はその日の光景である。
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