市川荒二郎 長谷川伸『よこはま白話』(1954年刊)より

市川荒二郎
市川荒二郎は、横浜を代表する俳優であり、明治後期の賑座(にぎわいざ)の、絹物縫製に従事する女性をターゲットにした通称「ハンケチ芝居」のスターであった。関西歌舞伎の名門三河屋市川荒五郎の次男に生まれ、大舞台も踏んだが、奇抜な演出で異端者扱いされ、横浜に落ち着き、「浜の団十郎」とも称された。一時旅芝居に出るものの、大正・昭和期の喜楽座・横浜歌舞伎座の座頭として人気を誇り、昭和10年(1935)10月10日66才で逝去した。荒二郎を「異端」「珍優」と形容する資料は少なくなく、劇作家の長谷川伸は、荒二郎が山崎の合戦に敗れた明智光秀が自動車で逃げ、それを羽柴秀吉が飛行機で追うといった珍無類の芝居をつくったと回顧する。しかし舞台での荒二郎は珍妙さが先走った芝居ばかりではなかった(「珍優市川荒二郎逝く」『演芸画報』1935年11月号、長谷川伸『よこはま白話』1958年刊)。
六代目三遊亭圓生は、明治の落語中興の祖、三遊亭圓朝の人情噺(にんじょうばなし)を狂言化した「塩原多助一代記」(三世河竹新七脚色)に出演した荒二郎の舞台を、噺家らしい口調で以下のように紹介している。
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