横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第147号
2020(令和2)年2月1日発行

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企画展
町会所から市役所へ
展示に出品した資料の中から

小野兵助の日記

幕末から明治初期の横浜の町会所は、神奈川奉行(神奈川裁判所)の管轄のもと数人の総(惣)年寄と町名主によってその運営がなされた。そのひとりに、横浜五丁目の町名主をつとめた小野兵助という人物がいる。小野は信濃国伊奈郡小野村(現長野県上伊那郡辰野町)の出身で、開港直後の1859(安政6)年に横浜に移住した。小野の関連資料は当館に所蔵(一部寄託)されており、そのなかには町会所に関する記録も含まれる。ここでは1870(明治3)年から71年にかけて記された「横浜町会所日記」から町会所の仕事の一端を紹介する。

「横浜町会所日記」
1870(明治3)年10月3日条、当館蔵(小野忠秋家文書)
「横浜町会所日記」1870(明治3)年10月3日条、当館蔵(小野忠秋家文書)

1870年9月20日。「駿州屋子供、馬車道往来ニて十七日夜、紙入拾ひ取候旨、又七殿より申出」が町会所にあった。子供が拾った紙入れ(財布)が届けられたのである。書類も一緒に拾われたことから、兵助たちは書類に記された人物に連絡することを又七に指示する。27日には捨て子の届けがあった。「(横浜町)弐丁目上原四郎左衛門軒下」で保護された捨て子は、しばらく保土ケ谷の忠次郎という人物に預けられていたが、現在「疱瘡」を患っているという連絡が町会所になされたのである。

町会所は商家の揉めごとに関与することもあった。開港直後の生糸貿易で富を得た中居屋重兵衛の二代目はこのころ相続トラブル(「中居屋重兵衛相続差し縺もつれ一条」)に見舞われていた。10月3日、この揉めごとの「示談」がほぼまとまったということで「双方(書類)取り替わし」があり、兵助たちも書類への署名(奥書)を求められている。

以上のように、町会所に詰める年寄と名主たちは、ひっきりなしに生じる町の大小さまざまな問題の処理にあたっていたのである。現在の市役所の仕事のルーツを考えるうえで興味深い。

(𠮷﨑雅規)

*本項の日付は陰暦による。

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