横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第147号
2020(令和2)年2月1日発行

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企画展
町会所から市役所へ
展示に出品した資料の中から

横浜真景一覧図絵

「横浜真景一覧図絵」
1891年(明治24)年 当館蔵
「横浜真景一覧図絵」1891年(明治24)年 当館蔵

この絵地図は、横浜市が発足した直後の1891(明治24)年に、絵地図作者の尾崎富五郎が描いたものである。絵地図は空から市街地を眺めた視点で描かれ、ここには掲載しなかったが、絵地図の表紙には、気球に乗った人物が町を見下ろす絵が描かれている。左手上部に初代横浜駅(現在の桜木町駅)、中央に横浜公園(現在の横浜スタジアム)がある。中央上部には波止場、右手には元町の市街地、中央下には現在の南区真金町付近が描かれ、発足したばかりの横浜の市街地がほぼ収められている。また、右下には横浜と並んで神奈川県を代表する都市であった横須賀町の絵地図が添えられている。

絵地図が描かれた当時の横浜市は、面積・人口ともに東京・大阪・京都・名古屋・神戸に次ぐ都会であり、国内有数の貿易港を持つ都市として発展を続けていた。主要産業である貿易は、輸出が生糸や茶を中心に全国輸出総額の6割、輸入が綿糸や毛織物などで5割を占めた。また、この頃から都市基盤整備が急激に進み、絵地図が描かれた数年後には大さん橋や防波堤が築造されたほか、近代的な建物が相次いで造られていった。したがって、この絵地図は、近代都市として変貌しようとしている直前の横浜の姿を描いたものといえる。

ところで、1890年代半ば以降、横浜では現在の鶴見区の海岸部で工業地帯の造成がおこなわれていったが、これは阪神工業地帯を後背地に持つ神戸港が綿紡績や綿織物に使用する原料を大量に輸入するようになり、輸入総額で横浜港を凌駕するようになったことが原因であった。ライバルである神戸港の台頭に危機感を強めた横浜の政財界人は、港の後背地に工業地帯を造成することを求め、この後、絵地図の左手方向で工業地帯が造られていった。こうして現在の鶴見区の海岸部には日本鋼管・浅野造船所・浅野セメントなどの工場が建ち並ぶことになった。残念ながら絵地図に描かれた街並みは、その後に造られた市街地も含め1923(大正12)年に発生した関東大震災で完全に崩壊し、当時の町並みの様子は絵地図や古写真で偲ぶしかない。

(西川武臣)

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