横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第147号
2020(令和2)年2月1日発行

表紙画像

企画展
町会所から市役所へ
展示に出品した資料の中から

幕末の洲干(乾)弁天社境内の浮世絵と写真(当館蔵)

新市庁舎の建設場所には、かつて洲干弁天社が鎮座し、古くから地誌や名所図会に取りあげられる名所となっていた。例えば、神奈川宿台町から眺めた洲乾弁天の「出洲」(砂浜)の絶景は、文政6(1823)年作成の「神奈川駅中図会」では次のように紹介されている。

眼下に広がるこの「出洲」に生い茂る小松の枝葉が汐風に吹かれる様子は、東海道沿いの名所として知られる駿河の清見寺から三保の松原を眺める風景のごとくであり、「窈窕(ようちょう)」として「三千の美人」が「紅粉」を粧いて一度に微笑むようである(斉藤司『煙管亭喜荘と「神奈川砂子」』2017年)

横浜開港の翌年の万延元(1860)年には早くも、開港場という新たな「名所」が加わった浮世絵シリーズ「神奈川横浜二十八景之内」が発行された。描いたのは、開港場、横浜を題材にした浮世絵(横浜絵)の第一人者、五雲亭貞秀(ごうんてい・さだひで)である。

その内の一枚が弁天社境内を描いた図1「横浜弁天町鳥居前通り并弁天町一丁目四ツ辻を見込池を渡り本社に至り内浦を見渡ス之図なり」である。画面右上に一部が見えているのが弁天社の社殿である。社殿前には池(瓢箪池)があり、太鼓橋が架かっている。画面奥の松林の向こうには野毛前の内浦が見渡せる。参道の両側には店が立ち並び、弁天町1丁目の賑やかなようすが伝わってくる。

図1
図1

外国人もこの名所を写真に残した。図2はイギリス人写真家、ベアトが撮影した一枚である。ベアトは文久3(1863)年春に来浜しているので、それ以降の撮影となる。

図2
図2

弁天社はその後、明治維新時の神仏分離政策によって「厳島神社」と改称し、明治2(1869)年に中区羽衣町に遷座し、今日に至っている。

(中武香奈美)

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