横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第147号
2020(令和2)年2月1日発行

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企画展
町会所から市役所へ
展示に出品した資料の中から

関東大震災と市庁舎

1923(大正12)年9月1日、神奈川県を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生、横浜の市街地は激しい揺れに襲われた。ここで紹介する2枚のガラス乾板は写真師の岡本三朗が撮影した市庁舎の状況である。

岡本三朗のガラス乾板
1923(大正12)年 9 月 当館蔵
岡本三朗のガラス乾板 1923(大正12)年9月 当館蔵

その1枚は地震発生から5分後の様子を捉えている。周囲の家々が倒潰するなか、耐震耐火構造の市庁舎は健在であった。当時、渡辺勝三郎市長が不在だったため、芝辻正晴助役が陣頭指揮を執ることになった。この時の状況は横浜市役所市史編纂係編・発行『横浜市震災誌』第三冊所収の芝辻の回想記「震災と市役所」に詳しい。

揺れが収まった後、市庁舎は安全と考えた芝辻は、臨時救護所を開設して応急対応にあたったが、次第に建物の周囲は炎に包まれていった。それに対し、芝辻は部下とともに窓を塞いで炎の侵入を防いだものの、塔の通気口から火が入り、三階の天井から燃え広がった。その後、職員たちは避難者とともに屋外に退避、最終的に建物の内部は焼け落ちていった。岡本が撮影した市庁舎は最期の姿だったのである。

そしてもう1枚は市庁舎の外壁と臨時の御真影奉安所となった市電車両を捉えた写真である。写真から市庁舎の内部が空洞になっている様子がわかる。建物が使えなくなったため、芝辻は市役所の機能を横浜公園に移転、2日夕方には、雨から守るため、御真影を焼け残った市電車両に移し、警備の人員を配したという。さらに桜木町の中央職業紹介所の無事がわかると、芝辻は3日朝に市役所機能をそこへ移転させた。おそらく岡本が写真を撮影したのは、この間の時間だったと考えられる。

これ以降、中央職業紹介所が臨時の市庁舎となり、隣接する海外渡航検査所に移転した神奈川県庁と合わせて震災対応の中心地となっていく。さらに9月11日には、市庁舎の屋上で緊急の市会が催され、震災対応の方針を決めていった。一方、外壁を残した旧市庁舎は解体されることになる。10月15日、水戸の工兵第14大隊が建物を爆破、2代目の市庁舎は瓦礫の山となった。

(吉田律人)

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