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「開港のひろば」第147号
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ミニ展示
享保期、横浜村の村びとと土地
安政6年(1859)に開港して国際港都として成長を遂げた横浜。その都心、現在の関内地区は、横浜の政治・商業の中枢地区としてビルが林立し、坪単価が300万を上回る土地もある。
開港前の関内地区が戸数100戸ばかりの横浜村という小ぶりな村だったことは知られているが、その具体的な様相は村の地方文書(じかたもんじょ)が失われていることから、よくわからない部分が多い。ところが、当館が新たに入手した巻物のなかに、享保19年(1734)2月14日という古い年紀をもつ横浜村にかかわる古文書が含まれていた。
古文書は、村内にある「下田壱反三畝四歩」(394坪、生産力は9斗1升9合1夕)を「敷金金子拾三両」(約130万円)と引きかえに相手方に譲ることを認める証文である。今後は年貢や諸役を売り渡し先で処理するようにとも記しているが、実際は元の持ち主が小作人として耕作を継続した可能性もある。
田んぼの持ち主の「横浜村」の清兵衛、そして、証人の七郎左衛門と八左衛門、年寄の七左衛門、名主の与四右衛門という5名の関係者が連署しており、江戸時代なかばの横浜村の村びとの名前が判明するのも興味深い。田を手に入れたのは本牧(本郷)村の勝兵衛という人物だが、彼は文化3年(1806)の史料では29筆もの田畑を所持している「土地持ち」である(「田方名寄帳」当館寄託佐藤安弘家文書)。
4月1日(水)まで開催するミニ展示ではこの古文書を初公開するとともに、周辺の資料から江戸時代の横浜村のようすの一端を紹介する。
(𠮷﨑雅規)