横浜開港資料館

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「開港のひろば」第114号
2011(平成23)年10月26日発行

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企画展
近代日本のナビゲーター

電信機名所発句寿古六

遠隔地に信号を送り情報を伝達する電信機は、ペリーの横浜来航時に、幕府への献上品の一つとしてもたらされ、小型の蒸気機関車とともに近代科学の実例として応接・警護の武士たちを驚かせた。その電信機は現在も逓信総合博物館に保存されている。

日本における電信の一般受付は、明治2(1869)年12月に京浜間で始まった。当初は民部大蔵省の事業であった。当館には、明治3年4月2日に、金木屋久兵衛から東京綿町(?)大津屋清次郎にあてた電信紙が残っている。内容は「サクジツノ、イチジヲ、コンヒル、ヨソシロウ、ヒトツ、ダケ、ジサン、ツカマツリ、ソロ」とある。「ヨソシロウ」については不詳であるが、何らかの予定の変更を伝える電信である。木版刷りの用紙に当時としては極めて珍しい鉛筆で本文等が記されている。電信事業が民部省から工部省に移管されたのは明治4年4月であった。

明治5(1872)年11月に発行された「電信機名所発句寿古六(でんしんきめいしょほっくすごろく)」(昇斎一景(しょうさいいっけい)画・辻岡屋文助板)は横浜を振り出しに、皇居を上がりとした浮世絵のすごろくで、京浜間の名所を俳句に詠んだものである。横浜からは「友昇」(森田友昇カ)「嵐松」「一芳」などの俳人が句を寄せている。名所の過半は東京で、浅草や神田明神などの伝統的な観光地の外、明治維新後に生まれた、招魂社(しょうこんしゃ)・工部省・民部省・外務省・海軍所(省)・東京府などの新名所が加わっている。俳句の内容は別段電信との関係はない。電信という文明開化の利器と維新後の新名所を組み込んだところに時代性がある。

しかしながら、このすごろくが発行される前年の明治4年10月、国内の電信線はすでに青森に到達していた。京浜間の伝達手段であった時代はまたたくまに過ぎていたのである。5年7月には函館・札幌間にも架設され、東京・北海道間の電信は、すごろく発行時は津軽海峡の海底線の完工をまつばかりであった。また6年10月には東京・長崎間の電信が完成している。浮世絵師と俳人たちが優雅にすごろくを作成しているあいだに、電信という情報の文明開化は長足にそのあゆみを進めていたのである。

(平野正裕)

電信機名所発句寿古六 明治5(1872)年11月
昇斎一画・辻岡屋文助板 「ふり出し横濱」の部分
電信機名所発句寿古六 明治5(1872)年11月 昇斎一画・辻岡屋文助板 「ふり出し横濱」の部分

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