横浜開港資料館

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「開港のひろば」第114号
2011(平成23)年10月26日発行

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企画展
近代日本のナビゲーター

生糸商標の誕生

折り返し器械が描かれた最初の生糸商標、佐野理八「娘印」
明治8(1875)年 当館蔵
折り返し器械が描かれた最初の生糸商標、佐野理八「娘印」 明治8(1875)年 当館蔵

19世紀半ば、ヨーロッパでは蚕の病気により生糸が枯渇(こかつ)していた。横浜開港で日本の生糸のほとんどは海外に向けられることとなり、生糸価格の高騰をもたらして、国内各地で生糸生産を拡大させた。

当時の生糸生産は、「座繰り製糸(ざぐりせいし)」という農家の副業として行われ、品質的にも不均一であった。海外市場で生糸が枯渇していた時代は、どのような生糸でも買われたが、明治に入ってヨーロッパの蚕糸業が立ち直りはじめると、日本産生糸の品質への批判が高まってくる。

明治政府が、フランスの技術を導入して群馬県に富岡製糸場の建設をすすめていた明治4(1871)年4月、横浜の外国人生糸商は、生糸改良の意見書を明治政府に提出した。意見書は民部省によって翻訳され、『製糸方法書』として頒布された。全文は『信濃蚕糸業史 下巻』(1937年刊)で読むことができる。その改良内容は、生糸の製造過程から、蚕種(蚕の卵)の選定、生産地表示などまでにおよぶものであるが、流通上の「極く良法」として、「凡ソ糸商人等は〔中略〕チョップと名くる如き記号を一束(大束をいふ)毎に附置きて互に他の家より出せるものと分別すべし」として、イタリア・フランス・中国の例から、「チョップを用ふる商人は常に良好にして同一真正の品を鬻(ひさ)くの名を得たるをもて」「外国の商人も些も疑惑を抱かず安心して之を購求し来る事久し」として、商標とその信用の重要性を指摘した。

しかしながら、日本に生糸商標が出現するまでには、なお数年を要した。福島県二本松の佐野理八(さのりはち)は、蚕の優良品種を選んで繭の改良をし、生糸をとった小枠(こわく)から大枠(おおわく)に折り返す器械を生産者に貸与して品位の改良統一をはかった。そして明治8(1875)年、生糸の上品にのみ「娘印」の商標をつけて横浜に出荷し、好評を博したのである。佐野理八は、二本松製糸会社の経営にもあたっており、二本松製糸場の商標も確認できる。

その後、生糸商標(プライベート・チョップ)は生糸荷主のあいだで一般化して、石版あるいは銅版の細密美麗な彩色印刷として、横浜市場を飾った。しかしながら生糸生産者が貼付した商標のほとんどは海を渡ることなく、横浜で輸出用の荷造りの過程で剥がされて、輸出商商標に換えられてしまう運命であった。とはいえ、今日残る明治期の生糸商標からは、近代日本の貿易収支をになう全国各地の生産者の充ちあふれる誇らしさが伝わってくる。

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