横浜開港資料館

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「開港のひろば」第114号
2011(平成23)年10月26日発行

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資料よもやま話1
松尾豊材(とよき)のこと

松尾豊材(写真1)は、弘化2年棚倉藩士の家に生まれ、明治9年に神奈川県小属に就任して後、約30年間にわたり、橘樹(たちばな)郡・津久井郡・都筑郡など県内の各郡長を歴任した人物である。松尾については、小林孝雄『神奈川の夜明け』(川崎歴史研究会、昭和53年)の中で、橘樹郡親睦会の発足に関わるなど、自由民権運動に理解を示した開明派の郡長として紹介されているが、その人物像については未解明な部分が多い。

写真1 松尾豊材 『津久井郡勢誌』より
写真1 松尾豊材 『津久井郡勢誌』より

このたび、松尾豊材の曾孫にあたる松尾史郎氏より、豊材の履歴書ならびに、彼が関東大震災後に綴った「松尾家由緒書」の提供を受けた。そこには、祖父・父の経歴、自身の官吏生活の思い出、家族のことなどが、率直に述べられている。ここでその一端を紹介することとしたい(履歴は最下段を参照 橘樹郡長以下の履歴については、官報等で適宜加筆・修正を施した)。

豊材の祖父・村八は、石見(いわみ)国浜田藩主・松平周防守康福(やすよし)に仕え、微禄の武家であったが、後に藩校・長善館に勤務するなど、高い教養を備えていた。助四郎(之長)も能書家として知られていたが、天保7年藩主(松平康爵(やすたか))の転封に伴い棚倉(福島)へと移った後は、藩の殖産興業策に呼応して、養蚕・銅山試掘を手がけるなど、事業家としての才覚もあった。しかし「上司要路に諂(へつら)ふ能(あた)はさる気質」の故に、高位に就くことはなかった。

豊材は、弘化2年4月17日、陸奥国東白川郡棚倉古町(現在・福島県)にて、助四郎の次男として出生。棚倉で門閥と要路に縁故のない彼は、江戸で習字を勉強して右筆(ゆうひつ)となる希望を抱き、文久3年江戸詰めとなると、松平家の国替当時の日記の謄写を命じられ、御用部屋書役(ごようべやかきやく)となった。

その後、藩主(康英(やすてる))は慶応2年川越藩に転封となり、松尾も明治元年川越に帰着。廃藩置県後に入間県が置かれると、明治5年雇として再び官職を得ることができた。その後、福岡県・若松県の県官をつとめたが、知事との軋轢(あつれき)もあって明治9年5月に依願退職した。しかし同年6月、河原一義の紹介により、神奈川県小属に迎えられた。

当初は小田原支庁詰めであったが、明治11年郡区町村編制法施行に際して、初代・橘樹郡長を命じられた。松尾は橘樹郡の印象を、「町村繁盛、田畑豊富にして、山岳少く、県下第一の好位置なり」と語り、郡長時代の約10年間について、臨場感あふれる記述で振り返っている。

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