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「開港のひろば」第110号
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資料よもやま話
APEC Japan 2010 in Yokohama 開催記念
館蔵絵葉書に見るアジア太平洋地域の諸都市
横浜の開港で世界一周が完結
横浜が開港されるまでは、ヨーロッパからの定期航路は中国までであった。
開港後、まず1864年にイギリスのペニンシュラー&オリエンタル汽船(P&O)が、1865年にフランスのメサジュリ・マリティム(フランス郵船)が、上海・横浜間の定期航路を開く。1867年にはアメリカのパシフィック・メイル(PM)が太平洋横断航路(サンフランシスコ・横浜・香港)を開設する。
これによって、ヨーロッパ・アジア間航路と太平洋横断航路が、ここ横浜でつながり、世界一周の輪が連結された。横浜はヨーロッパ・アジア間航路を乗り継ぎ、香港や上海などからやってきた人が最後に立ち寄るアジアの街であり、逆に太平洋を越えて、北米航路からやってくる人が始めて目にするアジアの顔であった。
1869年には、アメリカの大陸横断鉄道とスエズ運河が開通し、世界一周はさらに時間短縮された。近代日本の黎明期は、世界の交通網が革命的な発展を遂げた時代でもあり、横浜は急速にアジア太平洋地域の諸都市とのリンクを広げていった。
太平洋航路については、1880年代以降、カナディアン・パシフィック、日本郵船、東洋汽船が参入し、P&Oを含めての競争が激化した。
カナディアン・パシフィックの航路は、マニラ(図8)、香港、上海(図6)、神戸、横浜(図3)、バンクーバーをつなぐ路線と、ニュージーランドのオークランド、シドニー(図2)、ホノルル(図4)、バンクーバーをつなぐ航路がのび、優美な白い船体のエンプレス・オブ・インディア、エンプレス・オブ・チャイナ、エンプレス・オブ・ジャパンなどが就航した。それらは「ホワイト・エンプレス」と呼ばれた。
またどれほど早く太平洋を渡るかが競われ、1891年8月にはエンプレス・オブ・ジャパンが横浜―バンクーバー間を10日と13時間10分で走行した。38年前のペリー艦隊が地球を3分の2周し、220日あまりを費やしたのと比べると、横浜と北米との距離がいかに縮まったかが実感できる。