横浜開港資料館

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「開港のひろば」第110号
2010(平成22)年10月27日発行

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企画展
ときめきのイセザキ140年
―盛り場からみる横浜庶民文化―

伊勢佐木界隈は、横浜庶民の「ときめき」を一身にあつめた町でした。

慶応2(1866)年の大火後、横浜は関外地区にむけて開発を本格化させます。劇場の下田座と遊郭の移転は、盛り場としてのイセザキ発展の足がかりとなりました。

明治7(1874)年5月20日の神奈川県布達で、「伊勢佐木町」が命名されます。その町名は、道路整備に3000円の寄付をした、伊勢屋中村治兵衛(いせやなかむらじへい)・佐川儀右衛門(さがわぎえもん)・佐々木新五郎(ささきしんごろう)の三人の名前に由来することが明らかになっています。

その後、伊勢佐木町とそれに続く松ケ枝町・賑町・長島町の「伊勢佐木通り」と、その界隈には、芝居・寄席などの興行のほか、射的や玉突きなどのゲーム場、名物・名店が進出して、横浜唯一の盛り場として発展しました。

賑町の高所から撮した大火以前の伊勢佐木町通り
明治30年ころ 放送大学附属図書館所蔵
賑町の高所から撮した大火以前の伊勢佐木町通り 明治30年ころ 放送大学附属図書館所蔵

20 世紀を迎える直前、明治32(1899)年8月の大火で伊勢佐木町通り一帯は大きな被害をうけますが、その復興は速やかでした。その後、娯楽の主役は芝居・寄席から映画へと交代。また明治末には、大手呉服店のなかに今日の百貨店の経営手法を導入するものが生まれます。関東大震災を前後して、大きな吸引力を発揮したイセザキには、他都市からの資本が進出するようになりますが、それは盛り場としての魅力を高めることとなりました。

昭和期の集客をささえたのは、百貨店とシネマ、そして名店でした。百貨店は庶民にとって、あこがれの商品を取りそろえているばかりでなく、モダンな都市の消費文化を発信するランドマークでした。スターの魅惑的な顔立ちや豊かな生活ぶりから、子ども向けのチャンバラ映画のヒーローにいたるまで、シネマは庶民の心をときめかす作品をつぎつぎと公開していきました。

イセザキを闊歩する女性たち(アーチの向こうは野澤屋)
昭和10年代 当館蔵
イセザキを闊歩する女性たち(アーチの向こうは野澤屋) 昭和10年代 当館蔵

戦争の暗い時代をへて、イセザキの戦後復興の足かせとなっていた建物接収も、解除されるやふたたび市民生活になくてはならない憩いのまちがもどってきます。そこにはイセザキに「ときめき」を求める横浜市民の変わらぬ姿がありました。

展示では、伊勢佐木界隈140年間が演出した、横浜庶民の「ときめき」の諸相を紹介します。

(平野正裕)

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