横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第110号
2010(平成22)年10月27日発行

表紙画像

展示余話
「横浜山手 コスモポリタンたちの1世紀」展から
イギリス人医学生の「抑留日記」

本企画展では十数軒に及ぶご子孫の家のご協力をえて、多数の貴重な資料を出陳できた。一部は展示パンフレットや本誌前号の「資料に刻まれた家の記憶」で紹介したが、展示オープン直前に出陳が決まり掲載が間に合わなかった初公開資料があった。ここに紹介しておきたい。

1941年12月8日の開戦時、神奈川(横浜)には2つの抑留所が設けられ、根岸競馬場(神奈川第1)に59人、横浜ヨットクラブ(神奈川第2)に34人の敵国外国人が抑留された。かれらは横浜居住外国人男性や開戦時に横浜港停泊中の敵国船乗組員であった。全国では342人が抑留された。2つの抑留所は根岸競馬場の第1にまとめられ、さらに43年6月、日本海軍の接収にあい、現南足柄市内山のカトリック修道会マリア会の山荘に移転となった。53人が移り、同年9月の最終交換船で帰国した3人、抑留所で死亡した5人、病気で自宅に帰された1人を除く44人が食糧事情の悪化と厳しい環境の下、終戦までの2年間を過ごした。(小宮まゆみ『敵国人抑留』吉川弘文館、2009年)

「抑留日記」を残したデュア

当時、大船に住んでいたシデンハム・デュア(Sydengham Y. Duer)はセント・ジョセフの出身で、東京慈恵会医科大生であったが、開戦の日に大学で捕らえられ、工業用ダイヤモンド輸入商だった父ウィリアムとともに横浜に抑留された。さらに43年、内山に移され終戦まで約四年間の抑留生活を送った。

シデンハム・デュア 戦後 出羽康子氏蔵
シデンハム・デュア 戦後 出羽康子氏蔵

デュアは抑留生活最後の1年間、44年10月22日〜45年9月19日まで、4冊の日記を書き残した。日記帳は一日交替で英語と日本語で記されている。日記の所蔵者で度々、抑留所に面会に行った弟のエドワード・デュア氏によると、抑留所内での会話はほとんど英語のため、日本語を忘れないようにと考えたのではないか、とのことだ。悲喜交々の抑留仲間との共同生活、慢性的な飢え、監視員や地元民との交流、アメリカ軍戦闘機の襲来、自らのアイデンティー、将来の不安など日々のできごとや心情を記すことでいつ終わるとも知れない抑留生活を乗り越えようとしたのだろう。

44年10月31日の条にはその胸の内を次のように吐露している。

僕は…日本で生れ日本の母を有ち日本に対して不利な事はした事もないし又する気もない。日本は僕を敵視してゐるが僕は飽くまでも日本は好だ。僕を抑留し又苦しめてゐるのも日本人だがそれは或る小部分だ。彼等は愛国心を装っている国賊だ。

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