横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第110号
2010(平成22)年10月27日発行

表紙画像

展示余話
「横浜山手 コスモポリタンたちの1世紀」展から
イギリス人医学生の「抑留日記」

横浜大空襲の記録

45年5月29日午前、517機のB29と101機のP51戦闘機が横浜市中心部に襲来し、35万発の焼夷弾を落として神奈川・中・西・南・保土ヶ谷区の市街地を焼き尽くし、焼失家屋8万戸、罹災者31万人という大きな被害をあたえた。デュアはこの襲来を目撃した。

5月29日(火)曇天。山行き。空襲サイレンが鳴り出した(8時30分頃)。続々とB29が上空を通った。空は曇っては居たが雲が割に高かったのとB29が割に低く飛んでたのでよく見えた。400機程京浜地方に来たらしく我々の上を通った数も二三百あったろう。攻撃目標は横浜川崎だったらしい。

デュアの母と弟エドワードは中区打越に仮り住まいしていた。日記の記載は「横浜方面に物凄い煙が乱雲のように濛々と沖して[上って]いるのが見えた。あゝ母とエデ[エドワード]はあの下にいるのか無事でいてくれればいいがなあ」と続いた。幸い翌週の面会日にエドワードが無事な姿を見せ、焼け出されたが母も無事だと聞きようやく安心した。

終戦の日の感慨

8月15日、天皇の戦争終結の詔書が放送され、日本の無条件降伏を知ったデュアは日記に大きな文字で「終りだ」と書いて喜びを表した。

8月15日(水)面会日。晴天。…昨夜の重大発表は今日の正午まで延期。然かも陛下の御報送だ。何だろう。休戦ではないかな。…正午!足柄山の静けさ、聞えるのは蝉の音のみ。我々は各自の部屋に入ってゐる。…(終りだ)。…夢のような3年と8ヵ月程の監禁生活又、夢の如く過ぎ去って了った。…あゝやっと来た待望の日、8月15日。いつ本当に自由になるかな。いつ一家団欒の楽さを味わえるだろうか。もう近い将来だ。

「抑留日記」 エドワード・デュア氏蔵
「抑留日記」 エドワード・デュア氏蔵

その後も救援物資の投下を受けるなどして抑留所にとどまったが、9月4日、アメリカ兵が来て手続きを終え、10日に約4年振りに大船の家に帰った。程なくデュアは慈恵医大に復学して医者になり、おもに整形外科医として戦争で傷を負った人びとの治療をおこなった。1990年に亡くなった。

(中武香奈美)

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