横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第107号
2010(平成22)年1月27日発行

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展示余話
南綱島の名望家・池谷家

伯母ヶ坂(おばがざか)改修工事

連合戸長役場の設置と前後して、伯母ヶ坂(おばがざか)の改修工事が行われている。伯母ヶ坂(おばがざか)とは、綱島から鶴見川を渡って神奈川へと向かう綱島街道のうち、太尾・大曽根・師岡・樽一帯に拡がる丘陵地のことで、急峻で劣悪な坂道が交通の難所となっていた。

南北綱島・太尾・大曽根・樽の各村では、明治17(1884)年5月から10月にかけて、新道を開鑿する工事を行った。池谷(いけのや)義廣(よしひろ)は、沿道各村への工事協力と費用負担(総工費約2000円)を訴えるなど、指導的役割を果たした。「道路開鑿及修繕願」(池谷(いけのや)光朗氏蔵)には、「道路の嶮悪(けんあく)は自ら未開を示すに近ふして開化の魁首と矜称(きょうしょう)する我か県下の住民として少し他に恥るあり、是に我有志輩の積年遺憾とする所あり、故に迅速請工業に着手致し度」、と、道路建設に懸ける思いが表れている。

工事上の難点の1つは、新道開鑿に伴う私有地買い上げであったが、第三(大)区時代の同僚・前川元定(太尾村)を通して、地主の説得に成功している。

工事の終了後、開鑿記念碑を建立する計画があった。一度目は竣工直後の明治17年11月で、菱形の根府川(ねぶかわ)石を使用した高さ約2.1メートル・幅約1.3メートルの石碑が、鶴見の石工・飯島吉六(きちろく)に発注されたが、碑文の彫刻にまで至らなかった(池谷(いけのや)光朗氏蔵「伯母ヶ坂(おばがざか)改修工事関係書類」)。現在、碑文案については、県知事沖守固(もりかた)の篆額(てんがく)・橘樹郡長(たちばなぐんちょう)松尾豊材の撰文(明治20年 池谷(いけのや)が郡長に撰文を依頼)、橘樹郡長・中山信明の題額・大綱村長飯田快三(かいぞう)の撰文(明治24年10月)【写真】の2つが確認されているが、いずれも建立には至らなかったようである。

伯母ヶ坂(おばがざか)改修工事記念碑の計画
(神奈川県立公文書館保管「飯田家文書」中の「碑表建設願」)
伯母ヶ坂改修工事記念碑の計画

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