横浜開港資料館

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「開港のひろば」第107号
2010(平成22)年1月27日発行

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資料よもやま話1
創業一世紀の渡邉戊申株式会社(わたなべぼしんかぶしきがいしゃ)

造船技術者・渡邉忠右衛門(わたなべちゅうえもん)

横浜における民間造船業のパイオニアである渡邉忠右衛門は、嘉永元(1848)年伊豆国戸田(へた)村で生まれた。父金右衛門は、安政元年12月(1854)に沈没したロシア艦船「ディアナ号」の代替船「ヘダ号」建造にあたった船大工(「造船世話掛(ぞうせんせわがかり)」)の1人であり、その後石川島造船所で「君沢型(きみさわがた)」と呼ばれる洋式船の建造に従事した。忠右衛門もまた文久3(1863)年15歳で石川島造船所に入り、その後横須賀製鉄所をへて、横浜居留地のヨコハマ・アイアン・ワークス、築地の海軍兵学寮をへて、横浜の三菱製鉄所、横浜船渠(よこはませんきょ)と技術者として渡り歩き、明治29(1896)年平沼町4丁目に丙申(へいしん)工場を、31年には高島に渡邉造船鉄工所を設けて独立。明治42(1909)年神奈川台場東の海面を埋め立てて、本格的な乾ドック(かんどっく)をもつ渡邉船渠会社を開いた。忠右衛門は大正9(1920)年に72歳で逝去している。

豊富とはいえない渡邉忠右衛門の履歴資料ではあるが、忠右衛門のような技術者が、明治日本の近代化を底辺で支えたことは間違いなく、私は平成11年の当館企画展示「工業都市への鳴動―ビールから自動車まで」においてやや詳しく紹介した。渡邉船渠は昭和8(1933)年に操業を終え、不動産部門を運営する現在の渡邉戊申株式会社(明治41年創業・在神奈川区)が渡邉家の事業として残ることとなった。

渡邉戊申株式会社・渡邉淳社長から、平成20年に「当社が創立100周年を迎えるにあたり、記念としてこれまでご縁のあった横浜市のいくつかの施設に寄付をしたいが、なにかよい使い道はないか」との連絡をいただいた。大変ありがたいお申し出であり、横浜市がご寄付を受納するかたちをとり、以下の資料が開港資料館の収蔵品として収まることとなった。

拓本・渡邊忠右衛門翁碑

中区北方・妙香寺(みょうこうじ)の本堂から墓地にのぼる階段のわきにある石柱で区切られた一画に、大きな台座石に支えられた高さ3メートルをこえる巨大な石碑がある。自然石の表面に「渡邊忠右衛門翁碑」と刻まれた文面は漢文で、忠右衛門の履歴を記している。企画展示「工業都市への鳴動」では、文字をノートに書き取り、ワープロ入力したうえで展示パネルを作成したが、今回は専門業者に依頼して拓本をとり、軸装をお願いした。石碑の建立は忠右衛門氏逝去の3年をへた大正12(1923)年であり、85年の歳月は、文字を刻んだ部分の表面に細かな剥離を生じさせていたが、解読不能の文字はなかった。拓本を軸装したところ、タテ233センチ×ヨコ158センチとなり、開港資料館の企画展示室では陳列できないものとなった。そこでさらにお願いして、当館展示室のグリッドに掛けられるような縮小版も作成させていただいた。

【図1】渡邊忠右衛門翁碑の拓本
文字面だけで、タテ169センチ×ヨコ137センチの大きさである。
渡邊忠右衛門翁碑の拓本

拓本の本文とその内容解読は、他の資料とともに「渡邉忠右衛門関係資料」(仮題)とした史料紹介を『横浜開港資料館紀要』誌上ではたしたいと考えている。

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