横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第107号
2010(平成22)年1月27日発行

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展示余話
南綱島の名望家・池谷(いけのや)家

南綱島村名主・池谷(いけのや)家と鶴見川

現在の港北区綱島東付近に位置する旧南綱島村は、もとは北綱島村(現在の綱島台付近)と一村(幕府直轄領)を構成していたが、江戸中期に分村した。「旧高旧領取調帳」によると、村高は、南綱島村が545石、北綱島村が381石で、南綱島村の名主は池谷(いけのや)家、北綱島村は飯田家が代々つとめた。

南綱島村は、鶴見川と綱島街道(橘樹郡(たちばなぐん)中北部と神奈川宿を結ぶ)が交差する、橘樹郡(たちばなぐん)中部における交通の要衝であった。現在の大綱橋のたもとには河岸(かし)があり、幕末期には農業のかたわら米穀・醤油・酒・日用雑貨等を扱う者が現れるなど、付近の流通拠点ともなっていた。

その一方で、村の南端を鶴見川が西から東に流れ、東を矢上川、西を早淵川という2つの支流に挟まれることから、江戸期以来、度重なる洪水氾濫が繰り返された地域でもあった。

池谷(いけのや)家には、享和3(1803)年に小机村年寄・鶴見村名主と連名で幕府に治水工事を嘆願した際の鶴見川古絵図、鶴見川中流から神奈川沖合へと河水を二分させる放水路の計画図(天保期)などが残されており、同家が鶴見川をめぐる治水ネットワークの中心的存在であったことを窺わせる。幕末期の当主・与四郎(よしろう)は、天保3(1832)年、鶴見川の治水対策を老中に直訴して捕らえられたが、罪科を免れ、改修工事の監督主任を命じられるなど、沿岸住民の徳望も篤かった(『大綱村郷土誌』)。

与四郎(よしろう)の息子・東馬(とうま)(政之丞(まさのじょう))も、父に劣らず鶴見川改修に尽力した。彼は、太尾村の前川平吉とともに、明治3(1870)年に「鶴見川通新川目論見建白書」を神奈川県宛に上申した。これは、鶴見川の中流・小机から神奈川沖合に至る分水路を建設して、中下流の河水を二分し、洪水の被害を和らげようという計画であった。この計画は水害対策であると同時に、中下流域の河川敷を開墾して耕作地を増やすとともに、分水路を河川舟運の道として利用することで、付近の村々に大きな経済波及効果をもたらすものとして、中下流8か村から支持を集めた。しかし、建設費や地形上の問題等もあって実現しなかった(本誌86号「幻の鶴見川分水路計画」参照)。

南綱島村の池谷(いけのや)家
(『大日本博覧絵』 明治22年4月 当館蔵)
南綱島村の池谷家

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