横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第107号
2010(平成22)年1月27日発行

表紙画像

展示余話
南綱島の名望家・池谷家

第三区副区長・池谷(いけのや)義廣(よしひろ)

明治6(1873)年4月、神奈川県は「区画改正大略」を発し、5月より県内904町村を20区・108番組に編制する区・番組制度の実施を明らかにした。この時、池谷(いけのや)東馬(とうま)の息子・義廣(よしひろ)が、第三区の区長に任ぜられた。しかし程なく義廣(よしひろ)は依願免職となり、第三区長には鈴木利貞(としさだ)(神奈川宿青木町本陣)が任命され、義廣(よしひろ)は副区長に就任することとなった。この間の経緯についてはつまびらかでない。

神奈川県管内之図(第三大区部分)
明治7年9月 当館蔵「佐久間家文書」
神奈川県管内之図

第三区は橘樹郡(たちばなぐん)の南西部一帯(現在の神奈川区・鶴見区西部・港北区東部・保土ヶ谷区の一部、47町村)で、一〜八番組に分かれていた(南綱島村は八番組)。明治7年6月神奈川県は区・番組を大区・小区に変更、第三区は第三大区となった。

第三区の役所に当たる会所は、当初大豆戸村(まめどむら)の本乗寺(ほんじょうじ)に置かれ(明治7年1月に神奈川の新井忠兵衛家に移転)、鈴木・池谷(いけのや)に加え、小川・前川元定・加藤正規の5人が執務に当たった(明治7年の神奈川県職員録では、鈴木・池谷(いけのや)・加藤・前川・伊東直一)。区長・副区長は任期4年で、戸長・副戸長の「入札」によるとされていたが、当初は県令が人選に当たった。

池谷(いけのや)家に残る「区長副出港並結合日誌」(明治6年4月〜明治7年7月)によれば、戸籍事務、布達・布告類の順達をはじめ、管内の各種統計調査、年貢割付・皆済目録等各村書類の調整、壬申(じんしん)地券の書換、各種届・願の受付、負担金の徴収等、広範な行政事務のほか、区内で(あるいは区外在住者との間で)生じた様々な訴訟(官有林落札、金銭貸借等)の調停に多くの時間を割いている。また地租改正の地引絵図作成、徴兵入営者下調、小学舎課業表の作成などについて、頻繁に各村に出張している。加えて明治7年3月からは、区長鈴木と3ヶ月交替で県庁に勤務することとなった。

こうした日々の活動を通して、池谷(いけのや)が、橘樹郡(たちばなぐん)南西部の地域のリーダーたちとの人脈を築いていったことは想像に難くない。明治9年4月には池谷(いけのや)が主唱して、第三大区内で頼母子講(たのもしこう)を興す計画があり、生麦方面でも賛同する者も現れた(「関口日記」明治9年4月10日)。

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