横浜開港資料館

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「開港のひろば」第107号
2010(平成22)年1月27日発行

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特別資料コーナー
ペリーから贈られた皿

平成21(2009)年9月、川崎市高津区にお住いの合原義人氏からペリーが合原氏の先祖にあたる合原猪三郎に贈った皿が寄贈された。皿の大きさは直径約23センチ、厚さ2センチの円形で、色は乳白色で皿の周囲は黄色でふちどられている。皿を贈られた合原猪三郎は文政10(1827)年生まれで、ペリー来航時に浦賀奉行所の与力をつとめていた。

ペリーから贈られた皿(合原義人氏寄贈)
ペリーから贈られた皿

彼がペリーとの交渉役として活躍したのは嘉永7(1854)年で、ペリーが和親条約を結ぶために横浜村へ初上陸した2月10日に、旗艦ポーハタン号にペリーを出迎えに行った人物であった(『幕末外国関係文書』4396号)。その後、彼は、度々、ペリーのもとを訪れ、艦隊乗組員とも交流を深めている。

ペリー艦隊の通訳をつとめたウィリアムズの日記(雄松堂出版発行、新異国叢書8『ペリー日本遠征随行記』)にも、合原は度々登場し、2月22日の記述には合原が日本側の主なスポークスマンであったと記されている。また、5月28日の日記では、通訳の森山栄之助と合原がポーハタン号を訪れた際の様子が「昼下がりに栄之助が旗艦を訪れ、大統領へ献上する犬や鳥など数々の餞別の品物を持ち込んだ。栄之助と猪三郎は上機嫌であった」と記されている。

この時、ペリーは2人に直接面会し、菓子やワインでもてなしている。また、ペリーは、文化5(1808)年に長崎でイギリス軍艦が不法に港内に侵入した事件の結末について質問している。さらに、2人は、会見後にウィリアムズから贈り物を受け取っているから、もしかすると皿はこの時に贈られたものかもしれない。

合原家によれば、昭和初年まで同家には3枚の皿があり、その内の1枚を昭和3(1928)年に横浜市に寄贈したという。残念ながら、この皿は昭和20(1945)年の空襲で市庁舎が焼失した際に所在が分からなくなってしまった。今回、合原家のご好意により再びペリー艦隊と日本人の交流の歴史を伝える資料が横浜市に寄贈されたことを喜ぶとともに、合原家に深く感謝したい。

(主任調査研究員 西川武臣)

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