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「開港のひろば」第107号
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展示余話
南綱島の名望家・池谷家
再び鶴見川の分水路計画
伯母ヶ坂(おばがざか)改修工事から2年余り後の明治20(1887)年1月、都筑郡吉田村の笈川(おいかわ)新兵衛による「鶴見川新支川開通ノ件ニ付建言書」(「公私用雑綴」、神奈川県立公文書館保管「飯田家文書」)が県知事宛に提出された。この計画は、明治3年の分水路計画を基礎にしたもので、中流の小机村から分岐して鳥山・篠原・六角橋各村を通過し、神奈川の滝ノ川に接続する全長約5キロの新川を開鑿するというものである。
同年3月3日、県土木課員の清水保吉と岩田勝夫の2人が出張して、8日から分水路の起点となる亀甲山(かめのこやま)対岸より実地測量が開始されるなど、計画は現実味を帯び始めていた。この間、池谷(いけのや)義廣(よしひろ)は、県庁からの情報を、主唱者の笈川(おいかわ)や、北綱島村の飯田快三(かいぞう)(発起人の1人)等に逐次伝えたほか、分水路の下流にあたる神奈川の戸長(こちょう)・鈴木利貞(としさだ)(元第三大区長)とも意思疎通を図るなど、計画の進展を側面から支援した。残念ながら、この計画も実現には至らなかったが、伯母ヶ坂(おばがざか)改修工事と同様に、池谷(いけのや)が第三(大)区時代の人脈を生かしながら、地域のインフラ整備に取り組んでいたことが分かる。
その後、池谷(いけのや)義廣(よしひろ)は家督を長男の道太郎に譲った。道太郎は、明治40年に早稲桃(わせもも)の日月桃(じつげつとう)を開発し、綱島果樹園芸組合を組織するなど、地域の殖産興業に大きく貢献した。
近世の村役人層は、広範な政治・経済・文化活動等を通して人脈・情報・資金等を集積し、明治20年代に地方名望家と呼ばれる存在へと成長するが、池谷(いけのや)家の場合、幕末期以来の鶴見川治水ネットワークに加えて、義廣(よしひろ)の第三(大)区時代の行政経験が大きな意味を持っていたのである。
(松本洋幸)
本誌前号「横浜の地方名望家」の池谷(いけのや)家に関する記述で、事実誤認等があったため、本号で訂正させて頂きました。深くお詫び申し上げます。