横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第105号
2009(平成21)年7月29日発行

表紙画像

資料よもやま話2
幕末のイギリス駐屯軍中尉の手紙

鎌倉事件とスミス

手紙の中から1864年12月31日付の手紙[図版2]を紹介しよう。

【図版2】1864年12月31日付、横浜からの手紙 「スミス文書」
スミス家寄託・当館保管
1864年12月31日付、横浜からの手紙

この約1ヵ月前の11月21日、同じ連隊のボールドウィン少佐とバード中尉が鎌倉見物に出かけ、鶴岡八幡宮近くの段葛で攘夷派浪士の清水清次と間宮一に殺される事件がおきた(鎌倉事件)。スミスは、1ヵ月後に捕まった清水清次の処刑に立ち合い、その時のようすを手紙に記した。スミスにとって同僚のバードの身の上におきた悲劇は他人事でなかっただろうし、事件発生直後のスミスからの手紙で事件を知ったアイルランドの家族にとっても重大な関心事であったことだろう。

「あなたはわが連隊のかわいそうなバード殺害犯が捕まったという報せを聞いて喜んでくれるにちがいない。昨日[実際は28日−筆者註]、私はその処刑に立ち合った。殺害犯はその前日、役人の物々しい警護の中、横浜に連れて来られ、縛られて荷馬の背に乗せられて市中を引き廻された。彼の前には罪状と下された刑罰が書かれた大旗が掲げられていた[図版3 その光景は翌年、フランスでも紹介された]。その男はそれはすごい悪党の面をしていた。ただ笑って、歌を口ずさみ、自分の行為を自慢していた。

【図版3】 『ル・モンド・イリュストレ』1865年8月26日号、フランス海軍提督ジョレス付秘書官のルサンが描いた引き廻しの光景 当館蔵
『ル・モンド・イリュストレ』1865年8月26日号、フランス海軍提督ジョレス付秘書官のルサンが描いた引き廻しの光景

日本の役人は事前に彼に拷問を加え仲間のことを白状させようとした。彼は攘夷派の大きな組織の領袖で名門の生まれだ。組織の残党はいまだに大きな勢力をもっている。彼は木の陰に隠れ、バードが馬で通りがかった際、躍り出てバードの背後から斬りつけたと言った。

昨日[28日]、混合部隊[第20連隊の他にイギリス海兵隊と砲兵隊も立ち合った]が処刑を見届けようと神奈川[横浜の戸部の刑場のことか]まで行進してきた。横浜中の人びとが、何百人もの日本人たちが処刑を見にやって来た。

彼は目隠しもせず、ひざまずいて歌をうたっていた。それから口上を述べ、自分は祖国を愛する者であり、もし機会が与えられれば再び同様のことをおこなうつもりだと言った。またこのような罪で死ぬのは本望であり、自分の名前は日本において永久にのこるだろうと言った。外国人を罵る言葉をはき、そして処刑執行役人の方を向いて用意ができたと言った。最初の一太刀が振り下ろされたが、彼が少し避けたため、首は完全には切断されなかった。彼はおそろしい叫び声をあげた。しかしつぎの一振りで彼の首は完全に落とされた[図版4]。首は横浜第一の橋[吉田橋]のたもとに晒された。

【図版4】スミスが描いた処刑の場面のスケッチ 手前の一隊がイギリス第20連隊 「スミス文書」 スミス家寄託・当館保管
スミスが描いた処刑の場面のスケッチ 手前の一隊がイギリス第20連隊

私は一味の他の者も早く捕まることを望むものである。日本人はオールコックが帰国する前夜にこの友好的行為をとった。オールコックが帰国後におこなうイギリス政府への報告を怖れたからである。」

オールコックは幕府に鎌倉事件の犯人逮捕をつよく要請していたが、同年夏に主導した軍事行動である下関遠征を本国政府から叱責され、召喚されて帰国するところであった。

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