横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第105号
2009(平成21)年7月29日発行

表紙画像

展示余話
生糸貿易商中居屋重兵衛店の盛衰

中居屋の登場

では、今回の手紙の発見によって、これまで謎とされてきた中居屋の歴史がどのように明らかになったのだろうか。ここでは、これまでの調査の結果も踏まえて、中居屋の歴史をまとめ直しておきたい。

中居屋が生糸貿易の歴史に初めて登場したのは、安政6(1859)年のことで、同年1月から3月にかけて記された中居屋の日記に、中居屋が会津・上田・米沢など、生糸生産地を領地に持つ諸藩の藩士と頻繁に会っていたことが確認されている。

また、同年5月上旬に記された上田藩城下町商人の記録(上田市立博物館所蔵)には、中居屋が、会津・上田・紀州の各藩が出荷する生糸を独占的に外国商館に販売することが幕府によって認可されたと記されている(中居屋については、拙著『幕末・明治の国際市場と日本』雄山閣出版発行を参照)。

具体的には、諸藩は領内産出の生糸を城下町の生糸会所などに集め、生糸会所では、会所を運営する城下町商人が中居屋に生糸を出荷することになった。こうした方法を取ることによって、諸藩は城下町商人から冥加金などを得ることができるようになると同時に、領内産業の育成を図ることができるようになった。

こうして中居屋のもとに集荷された生糸の量は大変多く、10月8日に、三井横浜店の手代が記した手紙には、「横浜開港以来、最近までに3万5千斤(21トン)の生糸が外国商館に販売されたが、この内、五割以上の生糸を中居屋が扱っている」と記され、開港直後の生糸貿易が中居屋によって担われていたことが分かる。つまり、中居屋は生糸生産地を領地とする諸藩と結びつくことによって大量の生糸を集荷し、黎明期の生糸貿易を担っていったといえる。

また、興味深いのは三井の手代が記した手紙に、当時の中居屋が荷主から生糸を預かり、生糸を外国商館に販売して仲介手数料を取っていると記されていることである。この手紙を読む限り、中居屋は諸藩と関係を持ち、諸藩が設置した会所を運営する城下町商人などから生糸を出荷してもらい、これを外国商館に売り込むことによって、仲介手数料を得ていたことになる。

自己資金を使って生糸を集荷するためには多くの資本が必要であり、かつ手間もかかったが、城下町商人から生糸を預かる経営形態は資本も手間もかからなかった。おそらく、中居屋はこうした経営形態を取ることによって、開港後、数カ月という短期間に大量の生糸を集荷することができるようになったと考えられる。

中居屋の経営悪化

しかし、黎明期の生糸貿易をリードした中居屋の隆盛は長く続かず、冒頭に記したように、万延元(1860)年には、幕府から営業停止命令を受けている。営業停止の直接の理由は華美な店の普請であったが、その背景には急激な生糸貿易の拡大に危機感を強めた幕府の保守官僚の存在があったように感じられ、中居屋は見せしめの意味も含め、営業停止命令を受けたと考えられる。

ともあれ、中居屋が営業停止命令を受けたことによって、城下町商人も中居屋に生糸を出荷しにくくなったことはまちがいなく、これが中居屋の経営を不安定にさせた可能性がある。

『横浜市史』資料編一には、万延元(1860)年8月上旬から9月下旬にかけて、中居屋の番頭が、現在の長野県南部の飯田市や伊那市一帯で数百両から千両以上の資金を投下して生糸を集荷したことを記した資料が収録されているが、生糸販売を委託する荷主の減少を自ら生糸を集荷することによって補おうとしたのかもしれない。

その後、中居屋は二代目重兵衛に引き継がれたが、経営を好転させることができず、最終的に明治3(1870)年に営業権を常盤屋に譲り渡すことになった(二代目重兵衛については本誌31号の拙稿を参照)。

(西川武臣)

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