横浜開港資料館

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「開港のひろば」第102号
2008(平成20)年10月29日発行

表紙画像

展示余話
米友協会と米国大西洋艦隊

米友協会

米友協会は、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された。明治33年には、金子堅太郎が会長に就任した。その翌年7月14日に、久里浜にペリー上陸記念碑を建立したことでも知られている。

前回の企画展示「白船来航―米国大西洋艦隊にわく100年前の横浜・東京」では、横須賀市自然・人文博物館が所蔵する『米友協会会史』(明治44年 米友協会発行)を借用し、展示した。この資料は、同会幹事をつとめ、ペリー上陸記念碑建立に関わった澤田半之助氏のご子孫澤田智夫氏より横須賀市に寄贈されたものであり、米友協会の米国大西洋艦隊に対する歓迎ぶりが記載されている。

米国大西洋艦隊の来航を機に、日米国交の一層の親善をはかり、併せて日米戦禍の妄想を排除するため、米友協会は率先してその方針を果たすべく、心からの歓迎をすることを決めた。この時、横浜に関わる人物では、実業家で貴族院議員の大谷嘉兵衛が評議員をつとめ、50名の米艦隊歓迎委員にも選ばれた。また、有力な実業家である浅野総一郎や左右田金作、外国人向けの美術骨董商であるサムライ商会の野村洋三、近栄洋物店を営んだ飯島栄太郎等も会員であった。しかし、残念ながら、米友協会が主催する行事は、横須賀と東京を中心に行われた。

現在のペリー上陸記念碑
現在のペリー上陸記念碑

米国艦隊歓迎

米国艦隊横浜入港の当日、会員百余名と新聞記者20数名が横須賀に行き、海軍省属船由良川丸に乗船し、久里浜沖で艦隊を出迎えた。由良川丸の船上には日米協会名を英文で書いた旗を立て、各会員が前甲板に集まり、日米国旗を振って万歳を叫び、後甲板で海軍軍楽隊が米国国歌を演奏した。ペリー上陸記念碑前は、日米国旗と球燈で飾り、数百発の花火を打ち上げた。

10月23日には、東京の芝公園紅葉館において、米国艦隊司令長官以下乗組将校及び日本側の百余名を招待して晩餐会を開催した。この時、スペリー提督には、ペリー来航時の模様を描いた絵画を贈呈した。作者は下岡蓮杖で、額縁には、ペリーが幕府に献上し、宮内省に保存されていたアメリカの松材が用いられたという。

上京した米国艦隊下士卒およそ二千五百人のためには、10月19日より23日までの5日間、新橋停車場前・日比谷公園・芝公園・九段・浅草公園にビヤホール及び休憩所を設け接待した。一万余人が訪れ、好評を博したという。また、上野公園に天幕をはり、18日から4日間にわたり昼食も提供した。

『米友協会会史』はこのような歓迎行事を伝え、挿絵にはスペリー提督の肖像写真を囲むように、米国艦隊歓迎のための記念品が集められている。まず上に逓信省発行の歓迎記念絵葉書(二枚一組)、右上に艦隊将校夫人に贈られた米友協会の徽章入りブローチ、右下に東郷大将主催招待会の徽章、左に米友協会が艦隊将校に贈呈した徽章(六百個あまり寄贈)、その下に東京市長主催園遊会の徽章と海軍省が艦隊将校に贈呈した徽章、下に米艦乗組員特別乗車券が掲載されている。

借用したレヴィーン夫妻のコレクションに、これらの原資料の多くが含まれており、挿絵と同じように配置して展示することができた。どれも当時の歓迎振りを伝える貴重な資料である。

(上田由美)

米国艦隊歓迎記念品を集めた『米友協会会史』挿絵
米国艦隊歓迎記念品を集めた『米友協会会史』挿絵

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