横浜開港資料館

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「開港のひろば」第102号
2008(平成20)年10月29日発行

表紙画像

展示余話
磯村春子−白船艦隊艦長夫人たちの接待役について

10月26日まで開催された企画展示「白船来航―米国大西洋艦隊にわく100年前の横浜・東京」の中で、多くの方々の関心を引いた一枚の絵葉書がある。

着物姿の西洋婦人が並ぶ絵葉書である(図1)。戦艦や水兵たちの写真が展示される中で、確かにこの絵葉書は異色であった。

図1 艦隊艦長・将校の夫人たち レヴィーン・コレクション
艦隊艦長・将校の夫人たち

ここに並ぶ女性たちは、大西洋艦隊の来航に先立ち、親善のため民間の船で来日した、艦隊の艦長や将校の夫人・令嬢である。

外務省記録「各国艦隊週航関係雑件米国ノ部一」にも、夫人一行に関する文書があり、ジョージア艦長のコールトロー夫人、ニュージャージ艦長サザーランド夫人と二人の令嬢ら17名の名が記載されている。ただし実際に来日したのは18人とも報道される『東京日日新聞』(明治41年9月27日号)。

この写真は、明治41年9月26日、東京の三越呉服店で撮影したものだ。この日一行は朝8時40分横浜発の汽車に乗り、9時27分に新橋到着。三越からの迎えの馬車6台に分乗して店に向かった。

茶菓の接待の後、着物に着替えての写真撮影。その際の集合写真が図1である。翌日の新聞各紙や雑誌『風俗画報』の米艦隊歓迎特集号にも掲載された。

撮影の後、日本食の昼食を楽しむ。献立はゴマ酢あえなどの向膳に始まり、茄子の汁物、茶碗蒸し、小鯛の焼き物、卵焼き、車えびの煮物、胡瓜の粕漬けなどであった。『東京日日新聞』(同上)によれば、「おう酢ぱい、おう辛い、などと叫ぶもの紛々擾々として快活なる米国婦人の天真を発揮せり」と記している。

さて、この写真の後列左端に、一人の日本人女性が写っている。何人かの方にこの人物が誰なのかと質問を受けたが、謎であった。

展示も中盤にさしかかった頃、市内在住で女性史研究家の江刺昭子氏が展示をご覧になり、この女性に関する情報と貴重な写真をご提供くださった。

この人の名は磯村春子。報知新聞の記者であり、日本の女性記者の草分け的な人物である。

明治10年(1877)福島県相馬郡に生まれ、仙台の宮城女学校で英語を学んだ後、上京して磯村源透と結婚。

明治38年(1905)、報知新聞の記者になる。一方で8人の子を産み、取材先にもしばしば子供を連れていった。当時の新聞は小さなルビ付だったので、「子連れ」をもじって「ルビ付記者」と呼ばれた。

春子は英語が堪能であったことから、外国婦人との接触がおおく(図2)、その経験から白船艦隊の艦長夫人たちの接待役となったのであろう。『東京朝日新聞』(明治41年9月27日号)にも、「報知新聞記者兼一行の従者」として磯村春子が三越呉服店に同行したことを報じている。

図2 西洋婦人との記念撮影 三越呉服店で 江刺昭子氏提供
西洋婦人との記念撮影 三越呉服店で

春子は、その著書『今の女』(大正2年刊行、昭和59年雄山閣出版から復刻)の付録「婦人記者の十年」の中で、白船来航時の回想を載せている。艦隊が横浜に到着した当日、旗艦コネチカットでスペリー司令長官と握手したこと、艦隊に同行するニューヨーク・サン紙記者との交流、ルイジアナ号を訪問し、水兵たちと歓談したことなどを書き残している。

春子はその後病をえて大正7年(1918)、41歳の若さでこの世を去る。その時中学2年生だった春子の長男磯村英一氏から、江刺氏は何枚かの写真を譲り受けた。そのうちの2枚が図2と図3である。図3は春子の着物や帯、また星条旗から、図1と同じ時に子供と一緒にとった写真と思われる。ルビ付記者の証明写真といえるかもしれない。

図3 春子と長男英一・長女俊子 江刺昭子氏提供
春子と長男英一・長女俊子

白船来航時に一人の日本人女性記者が活躍していた。このことをご教示いただくとともに、貴重な写真をご提供くださった江刺昭子氏に重ねて御礼申し上げます。

(伊藤泉美)

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