横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第102号
2008(平成20)年10月29日発行

表紙画像

企画展
花と緑とうるおいと

横浜のユリ根輸出とランの輸入

横浜港から輸出される植物の代表はユリであった。横浜港のユリ根輸出は、日本全体の90パーセント以上を常時占め、第一次大戦までは増大の一途をたどった。大戦によって貿易額を減らすものの、戦後ふたたび拡大に転じた。

日本のユリは、シーボルトやプラントハンターのジョン・ヴイーチらによってヨーロッパで紹介され、多様な品種、その比類のない大輪・華麗な容姿が熱狂的に愛された。19世紀末〜20世紀初頭は、「ジャポニスム」の時代であった。宝飾・ガラス工芸家として著名なフランスのルネ・ラリックは、ユリやフジ、マツなどの植物をモチーフとする作品を数多く残した。横浜から輸出された植物がラリックの作品に反映されたことについての直接的な裏付けはないが、「植物のジャポニスム」がなんらかの啓示をあたえたことは否めないだろう(箱根ラリック美術館編『ラリックに咲いたシーボルトの「和の花」』2008年刊)。

「豊かなユリ(Prolific Lily)」の題名で『ザ・ファー・イースト』誌にユリの写真が掲載されたのは、明治5(1872)年9月16日号である(図5)。この明治5年から、百合根の輸出高が大蔵省の貿易統計(「各開港場輸出入物品高」)に記録される。ちなみに当該年のユリ根輸出は、横浜港から「四十二箱」が輸出されたことがわかる。金額換算すれば113円余。横浜港輸出のトップで、515万円を超える生糸とは比較にならない少額であった。その後、生糸もユリ根も、輸出品として伸張していった。ユリ根の栽培地は、横浜周辺から房総に、房総から鹿児島沖永良部島へと基盤を移して拡大していった。

図5 Prolific Lily ,The Far East,Sep.16th,1872 当館蔵
Prolific Lily ,The Far East,Sep.16th,1872

大正2(1913)年の横浜港の生糸輸出額は1億8,847万円余、ユリ根は97万円余で、やはり比較すれば少額であるが、双方とも横浜港の取り扱いが他港を圧倒していることが共通していた。ユリ根の場合、球根産地・生産農家と横浜の植物専門商社が技術的・品質的側面から密接に結びつき、消費地としての海外の市場の動向を把握していることに強みがあった。ユリ根輸出における横浜港の優位は、昭和期になっても続き、昭和6(1931)年に総合商社三菱商事が沖永良部に進出してユリ根農家を取り込み、いわゆる「百合根戦争」を惹きおこしたものの、数年後撤退という事態に帰結している(その詳細は『横浜植木株式会社百年史』1992年刊)。戦時下に食糧増産によってユリ根栽培が否定されるまで、ユリは横浜港と不可分の関係にあった。

横浜の植物貿易をリードした横浜植木株式会社は、自社に温室をもち、海外の珍しい花を開花させて国内に広めた。大正2〜4年にかけて刊行された『園芸植物図譜』各巻には、今日の花屋でも高級な花卉として目にする洋ラン(図6)、カーネーション、チューリップなどが絵入りで紹介されている。今から約九五年前、日本人のだれがこのような華麗な花を楽しんだのであろうか。未だ貧しい日本のなかにある、ひとにぎりの豊かな階層の生活ぶりに思いをはせざるをえない。

(平野正裕)

図6 洋ラン:シペリペディウム・カテーシー 『園芸植物図譜』第4輯
大正2(1913)年刊
 横浜植木株式会社蔵・当館保管
洋ラン:シペリペディウム・カテーシー 『園芸植物図譜』第4輯

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