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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第97号
2007(平成19)年8月1日発行

表紙画像
企画展
区制80周年記念
昭和の幕開け−大横浜を築いた市長・有吉忠一
企画展
大横浜建設と五区の誕生
展示余話
遊女の手紙と遊郭関係資料
資料よもやま話1
牧内元太郎(まきうちもとたろう)と『横浜毎朝新報』
新収資料コーナー(5)
大震災直前の横浜市街
資料館だより

資料よもやま話2
神奈川台場よもやま話
−残された記録を読む−


  神奈川台場は、万延元年(1860年)に現在の神奈川区の海岸部に築造された砲台である。台場は、対岸に位置する開港場(現在の中区の中心部)の防衛と外交儀礼上の祝砲や礼砲を発射するための施設であった。台場を築造したのは現在の愛媛県松山市に城を持っていた松山藩で、幕末期は松山藩や古河藩が警備を担当した。

  明治維新後は新政府が台場を管轄し、明治4年(1871年)からは軍の施設となり、明治32年(1899年)まで台場は存続した。近年、台場の遺構が土中にあることが確認され、現在、市民団体によって保存運動がおこなわれている。横浜開港資料館では開館以来、台場が横浜市の重要な史跡であることから関係資料の調査を実施してきた。また、「開港のひろば」でもその中からいくつかの資料を紹介してきた。ここでは、近年おこなわれた台場関係資料の調査の過程で発見された資料をいくつか紹介したい。

祝砲・礼砲は何発発射?

  神奈川台場は、国交のある国の外交官の赴任・離任の際の儀礼上の礼砲、大統領・国王の誕生日の際の祝砲などを発射してきた。これらの祝砲・礼砲の数については国際的な決まりがあり、役人たちはどのような時に何発の礼砲や祝砲を発射するのかを知っておく必要があった。この点について記した慶応3年(1867年)の文書が北海道立文書館(札幌市中央区)に残されている。

  文書は箱館奉行所で作られたもので、箱館奉行所が各地の奉行所に問い合わせなどをおこなった記録である。表紙には「文通録補」と記され、その中に神奈川台場で発射された礼砲や祝砲の数を記した記録が収録されている。記録によれば、国王の誕生日には横浜港に停泊する当該国の船が最初に21発の祝砲を発射し、これに応えて神奈川台場からも同数の祝砲を発射することになっていた。

  また、公使の赴任と離任に際しては、開港直後は15発の礼砲が神奈川台場から発射されることになっていた。ただし、その後、イギリスから「公使の位階が高い人物が赴任した際には17発の礼砲を撃つべきである」との申し出があり、慶応3年段階では公使の位階を確認してから礼砲を発射することになったと記されている。

  具体的な例としてアメリカ公使の着任の際には15発、その後、着任したイギリス公使の際は17発の礼砲が発射されたと記されている。アメリカ公使については誰のことか分らないが、イギリス公使は慶応元年(1865年)に赴任したパークスの可能性が強い。いずれにしても国と国が付き合うためには、さまざまな取り決めが必要だったようである。

幕末の横浜市街地と神奈川台場(「御開港横浜正景」横浜開港資料館蔵)
左手下の六角形の構造物が神奈川台場。中央に波止場(現在の大さん橋付近)が描かれている。

幕末の横浜市街地と神奈川台場


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