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企画展
大横浜建設と五区の誕生
1 有吉忠一(ありよしちゅういち)市長の三大方針と大横浜建設記念祝賀式
大正14年(1925年)5月7日横浜市長に就任した有吉忠一(ありよしちゅういち)は、米貨(べいか)公債を募集して震災復興を早期に完成するとともに、市政の重点方針として、横浜港の拡張、臨海工業地帯の建設、市域拡張の三大方針を打ち出した。有吉は、それまで生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して本格的な工業化を推し進めるためには、臨海部に大規模な工業地帯を建設し、それらを包摂(ほうせつ)する港湾機能を拡充させ、さらにその外側に港湾を支える広大な後背地(こうはいち)を獲得することを企図していた。これらは「大横浜建設」の三大方針と呼ばれた。
震災復興事業が終盤にさしかかった昭和2年(1927年)は、横浜港の外防波堤建設工事が始まり、子安(こやす)・生麦(なまむぎ)沖の海面64万坪の市営埋立が開始され、横浜市は周辺の9町村を合併して第三次市域拡張を行うなど、先の三大方針が一挙に始動する画期的な年であった。
この年の6月2日には秩父宮を迎えて開港記念横浜会館で「大横浜建設記念祝賀式」が開催された。式典では6枚組の絵葉書が記念品として配られた。写真1はそのうちの1枚(「十年後の横浜港」)である。昭和2年3月横浜市港湾部で製作された模型を絵葉書にしたもので、外海(がいかい)の波浪を遮断する外防波堤(そとぼうはてい)、新設された瑞穂埠頭(みずほふとう)、工場群が林立する子安(こやす)・生麦(なまむぎ)沖の市営埋立地、鶴見川河口から東京方面へと向かう京浜運河(けいひんうんが)など、巨大な臨海工業地帯と一帯となった「大横浜」の将来像が凝縮されている。