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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第97号
2007(平成19)年8月1日発行

表紙画像
企画展
区制80周年記念
昭和の幕開け−大横浜を築いた市長・有吉忠一
展示余話
遊女の手紙と遊郭関係資料
資料よもやま話1
牧内元太郎(まきうちもとたろう)と『横浜毎朝新報』
資料よもやま話2
神奈川台場よもやま話
−残された記録を読む−
新収資料コーナー(5)
大震災直前の横浜市街
資料館だより

企画展
大横浜建設と五区の誕生

3  昭和初期の地域振興の動き

  発足した5区は市行政の便宜のために設けられた行政区で、法人格を持たなかった。区議会は存在せず、区役所の仕事は専ら窓口業務で、独自の事業展開を行う余地はほとんどなかった。

  しかし昭和初期の各区では、様々な地域振興に向けた動きが始まっていた。ここではそのいくつかを紹介することにしたい。 横浜市中興会(ちゅうこうかい)は、昭和7年10月1日中区長多田純二(ただじゅんじ)を会長に据え、中区における精神の作興、経済の振興を図ることを目的として結成された団体である。昭和10年現在、会員数676名を数えた。昭和7年から8年にかけての事業概要(当館蔵「原田久太郎(はらだきゅうたろう)文書」)によれば、中区出身兵士の葬儀や留守家族の見舞、精神作興に関する大講演会のほかに、鳥瞰図「伸び行く大横浜」(写真3)の3万部刊行、湘南電鉄(しょうなんでんてつ)(現在の京浜急行)弘明寺駅構内への大絵図建立、横浜税関構内に「スーベニヤー・バザー土産品売店」の設置など、中区の現況を内外に広くアピールする広報宣伝活動を行っている。加えて、連隊招致や煙草専売局の工場誘致を関係各方面に対して陳情活動を行った。横浜市中興会(ちゅうこうかい)の場合、区長のイニシアチブで発足した団体としての性格が強いが、連隊招致を他区に呼びかけて運動の拡大を狙うなど、その活動は中区にとどまらず、市全体の地域振興とも密接に関っていた。


写真3  伸び行く大横浜

伸び行く大横浜

  保土ケ谷自治懇話会は、昭和2年7月の創立で、地域内自治の向上発展並びに会員相互の親睦を図ることを目的とし、区役所に事務所を置いた。会長には岡野欣之助(おかのきんのすけ)・野方次郎(のかたじろう)・磯貝正(いそがいただし)ら、代々地元の名士が就任した。会員数は約100名で、自治進展に関する講演会の開催とそれを活字化した『自治資料』の出版を主な活動として、実業視察員の派遣、篤行者表彰、高齢者慰籍(いせき)等を行ったほか、帷子川(かたびらがわ)改修促進、東京〜横浜列車増発、保土ケ谷駅前開発などについて陳情を行うなど、地域振興に大きな役割を果たした。昭和6年10月21日には保土ケ谷区の未来を語る座談会が開かれている(「例会及座談会記録」、横浜市中央図書館蔵)。そこでは、区内の高台に飛行機着陸場の設置を請願する件、境木(さかいぎ)に陸海軍脚気療養所(かっけりょうようじょ)の設置促進を働きかける件などが議題となっている。明治末から帷子川(かたびらがわ)沿いに多くの工場が進出した保土ケ谷では、震災の前後から高台(たかだい)を利用した住宅・行楽地・療養施設の建設が進められていた。

  鶴見区でも昭和5年11月19日に鶴見区発展座談会が行われている(藤田鎌吉(ふじたかまきち)『鶴見興隆誌(つるみこうりゅうし)』、自由新聞社、昭和5年12月)。主催者は山中竹樹(やまなかちくじゅ)鶴見区長で、区内の政界・実業界・工場首脳者・教育界・署長・各官公団体長・銀行家ら約30名を集めて行われた。座談会の項目は、工場招致策、家内工業・副業活性化策、住宅政策、商業政策、娯楽施設の改善、など多岐に及んだが、終盤に差し掛かると、「どうしても横浜には『関内(かんない)中心主義』と云ふものは依然としてある。之れを打破して鶴見を生かさなければ横浜は発展しない、鶴見は馬鹿にされている」として、横浜市と鶴見との合併条件(水道・道路・塵芥処分場(じんかいしょぶんじょう))の貫徹を求める強い意見も出た。鶴見地域は横浜市との合併をめぐり賛否両論が激しく対立した所であるが、市内のインフラ整備状況の地域格差への不満と、臨海工業地帯の一角を擁しているという自負が垣間見えて興味深い。

  磯子区では昭和6年に磯子区振興会が結成された(発足時約180名)。同会規約(当館蔵「脇沢家文書」)によれば、区の振興発展と会員・区民の相互融和親睦を図ることを目的とし、およそ隔月に総会を開催したほか、調査研究視察並びに講演会なども行った(同会規約 前掲「脇沢家文書」)。昭和6年10月28日に開催された第一回役員会では、区内に登記所を設置する件、振興会自らが貸家(かしや)紹介事業を行う件、名刺交換会開催の件、西根岸(にしねぎし)海岸埋立地に地元の青年団や小学校生徒を動員して松の砂防林を設置する件、アサリ貝の自由採取を認めて遊覧客を誘致する案、伝染病院・塵芥処理場(じんかいしょりじょう)が周辺地域に及ぼす被害の調査、などが話題に挙がっている。

  神奈川区では、昭和5年9月に神奈川経済協会が発足している(会員数150名、『神奈川区勢要覧』昭和9年)。同会には、総務部、商工部に加えて、農芸部が設置され、生産品評会・即売会の開催、一般農事の改善発達に関する事項などが事業内容に含まれていることが特徴である。神奈川区は、子安(こやす)沖の市営埋立地を区の中心に据えながら、都市向けの蔬菜・果樹栽培の盛んな旧大綱村(おおつなむら)・城郷村(しろさとむら)(現在、港北区(こうほくく))などの近郊農村を含んでいた。さらに同会は、昭和7年に「神奈川区の栞」というパンフレットを発行し、松風園(しょうふうえん)・寶台(たからだい)・白幡(しらはた)・浅間台(せんげんだい)・諏訪山(すわやま)などの丘陵地帯に開ける新興の分譲地を紹介するなど、住宅地帯としての発展をも企図していた。

  このように、昭和初期の横浜市では、有吉忠一の「大横浜建設事業」が進行しつつ、各区単位でも様々な地域振興の試みが図られていた。有吉忠一(ありよしちゅういち)は昭和6年2月に健康上の理由から市長職を辞任するが、その後も横浜商工会議所会頭などをつとめ、横浜市の経済発展を側面から支え続けた。

  (松本洋幸)


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