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資料よもやま話1
牧内元太郎(まきうちもとたろう)と『横浜毎朝新報』
はじめに
明治後期から昭和の初めにかけて、横浜を代表する新聞『横浜貿易新報』と対峙したのは、牧内元太郎が発行する『横浜毎朝新報』だった。
しかし、現在残された原紙はわずかであり、牧内についてもあまり知られていない。新聞や雑誌に掲載された記事から、牧内の経歴が明らかになったので、ここに紹介したいと思う。
新聞事業に従事
牧内は、明治元年(1868年)、長野県上田に生まれた。早稲田大学政治法律の専科を出た後、北海道に渡り『北門新報』に主筆として入社したところから、新聞事業に従事するようになる。
一時故郷に戻った後、明治28年(1895年)には横浜市本町6丁目で、同窓の関谷という人物と高等通信社を開設する。その後、独立して牧内通信事務所を開き、東洋通信社と改称した。全国で30を越す新聞の通信を司り、特に生糸商況などの市況が好評だった。
明治32年になって、週刊の『内外商事新報』を引き継ぎ、英語・日本語併記で商況を報道した。所在地も弁天通に移っている。そして、明治34年に組織を変更し、政治・経済・国内海外の時事を報道した。
さらに、翌年社務拡張のため南仲通四丁目に移転し、明治36年(1903年)には、『毎朝新報』に改題して日刊になったが、日露戦争の影響により経営が悪化し、『横浜タイムス』という週刊紙に改めた。そして、明治38年に横浜市会議員半数改選があり、同志を応援する必要から『毎朝新報』を再刊することとなった。
『横浜毎朝新報』
『毎朝新報』の発行高を『神奈川県統計書』で見ると、明治38年は、1ヶ月平均2万1千部だった。翌年以降の発行部数は、1ヶ月平均12万部を超える程度で、明治45年になって21万部を超えているが、『横浜貿易新報』には及ばなかった。
雑誌『実業之横浜』4巻6号(明治40年8月)に、『横浜貿易新報』と『毎朝新報』を対照した記事が掲載されている。それによれば、発行所の所在地に照らして、『横浜貿易新報』が本町辺の商人の如く着実な所があるのに対して、『毎朝新報』は南仲通のどこか相場師風な派手なところがあると評している。
同誌3巻11号(明治40年4月)に載った『毎朝新報』の広告も少々派手である。まず、「総振仮名付誰でも読める花も実もある新聞なり」と書かれている。そして、1ヶ月定価20銭のところ特別割引で17銭とある。ちなみに、この時『横浜貿易新報』は1ヶ月30銭である。さらに、「横浜唯一の新聞」、「細大洩さざる」、「商業家の羅針盤」、「人日常の米の飯」、「広告利用の良法」、「横浜唯一の色刷」と宣伝文句が続く。
大売捌所には、住吉町4丁目日の出屋新聞店、本町6丁目新聞堂、福富町2丁目花田新聞店、弁天通6丁目角田屋などの13箇所が挙げられている。 翌年、『毎朝新報』は『横浜毎朝新報』と改題した。