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企画展
区制80周年記念
昭和の幕開け−大横浜を築いた市長・有吉忠一
横浜の復興状況を秩父宮(中央)に説明する有吉忠一(左)
昭和2年6月2日 生糸検査所屋上から
当館保管「有吉忠一関係文書」
有吉忠一(ありよしちゅういち)(1873年〜1947年)は、大正12年(1923年)の関東大震災で大きな打撃を受けた横浜をいち早く復興させ、横浜港の拡張・市営埋立・市域拡張を行うなど、数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長として知られています。
有吉は明治6年(1873)年京都府に生まれ、第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)を経て、明治29年(1896年)に内務省に入り、明治末から大正期にかけて、千葉、宮崎、神奈川、兵庫の各県知事を歴任しました。各赴任地では、鉄道・道路・港湾などの交通機関を急速に整備し、農業・漁業などの産業振興に力を入れました。また西都原(さいとばる)古墳群(宮崎県)、相模国分寺跡(さがみのこくぶんじあと)(神奈川県)など史蹟(しせき)の発掘・保存にも理解を示し、文化面でも多くの功績を残していました。また韓国統監府(かんこくとうかんふ)総務長官(のち朝鮮総督府総務部長官)、朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)政務総監として植民地行政にもたずさわり、治水対策・開田(かいでん)事業・朝鮮史編纂などを手がけました。
大正14年(1925年)5月、有吉は、横浜の政財界の期待を一身に集めて市長に就任しました。彼は市会の多数派の協力を取り付けるとともに、有能な官吏を登用して、復興事業を早期に完成させました。
その一方で、有吉は、横浜市の将来像について、それまでの貿易都市から商工業都市へと飛躍させることが必要だと考えていました。そこで彼は、「大横浜建設」をスローガンに掲げて、横浜港の拡充、臨海工業地帯の建設、市域拡張という三つの政策を打ち出します。昭和2年(1927年)は「大横浜建設の年」と位置づけられ、横浜港の外防波堤(そとぼうはてい)が着工となり、子安(こやす)・生麦(なまむぎ)沖で約64万坪の市営埋立地の建設が始まり、また横浜市と周辺の9つの町村が合併して市域面積はそれまでの3.6倍に広がり、中区・鶴見区・神奈川区・保土ケ谷区・磯子区が誕生しました。
今年は、横浜市が区制を実施して80年目にあたります。本展示では、現代の横浜の礎(いしずえ)を築いた有吉忠一(ありよしちゅういち)の足跡と、震災復興当時のエネルギーにあふれた人びとの姿をたどります。
(松本洋幸)