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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第97号
2007(平成19)年8月1日発行

表紙画像
企画展
区制80周年記念
昭和の幕開け−大横浜を築いた市長・有吉忠一
企画展
大横浜建設と五区の誕生
展示余話
遊女の手紙と遊郭関係資料
資料よもやま話1
牧内元太郎(まきうちもとたろう)と『横浜毎朝新報』
資料よもやま話2
神奈川台場よもやま話
−残された記録を読む−

祝砲・礼砲は何発発射?
台場に置かれた大砲の数
火薬の暴発で死者が出た
台場の廃止について
新収資料コーナー(5)
大震災直前の横浜市街
資料館だより

資料よもやま話2
神奈川台場よもやま話
−残された記録を読む−

佐賀藩が台場に進駐

  神奈川台場は、開港場に付随する重要な軍事施設であった。そのため、戊辰戦争に際しては新政府軍が横浜を接収すると同時に台場に進駐し、その後、台場は新政府によって管理されることになった。新政府軍が幕府の出先機関である神奈川奉行所(現在の西区戸部町にあった役所)を接収したのは慶応4年(1868年)4月20日のことで、4月24日には神奈川台場への進駐が開始された。

  この時、台場を管轄していた古河藩から台場を受け取ったのは佐賀藩であり、現在、佐賀県立図書館(佐賀市)に関係資料が残されている。この資料は「横浜御出張日記」と題され、佐賀藩士が記した横浜進駐の記録である。記録によれば、台場の接収はトラブルもなくおこなわれ、24日から当面、侍4人、足軽8人が常駐することになった。

  また、29日からは台場に設置された大砲の訓練も実施され、30名の足軽が台場に派遣されている。訓練は朝からおこなわれ、昼から21発の空砲が発射されたとある。4月1日にはイギリスとの祝砲の交換もおこなわれ、横浜港に停泊するイギリス軍艦と神奈川台場のそれぞれから21発の祝砲が発射された。この日記には、そのほかにも台場についての記事が散見するが、新政府軍が台場を重要な施設と考えていたことが良く分かる記録である。

台場に置かれた大砲の数

  神奈川台場に何門の大砲が設置されていたのかについては、いくつかの記録がある。しかし、時代によって若干の異同があり、設置された大砲の数は時々に変更された可能性がある。ここでは、そうした資料のひとつである明治2年(1869年)2月に作成された「御武器員数」(横浜開港資料館館蔵文書)と題された資料を紹介する。

  この資料は神奈川県が作成したもので、神奈川県が所蔵する武器の一覧である。その中に神奈川台場に設置された大砲についての記述がある。記述は簡単なもので、台場には60斤砲が一門、36斤砲が10門、24斤砲、12斤砲、6斤砲が各1門あったと記されている。

  この記述によれば、明治初年の台場の大砲は全部で14門あったことになる。ただし、12斤砲と6斤砲には砲弾がなく、使用できる大砲は12門であった。これらの大砲の性能については記述がなく、和製であったのか西洋製のものであったのかも不明である。また、台場には大砲・火薬・砲弾のほか、日本と国交を持っていた11カ国の国旗も備えられていたと記されている。

  国旗が備えられていた国の名前は記されていないが、日本は明治2年までにアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ・ポルトガル・プロシャ・スイス・ベルギー・イタリア・デンマーク・スウェーデン=ノルウェー・スペイン・北ドイツ連邦などと通商条約を結んでいたから、こうした国の国旗が備えられていたと思われる。 また、資料には祝砲・礼砲についての記述もあり、2月2日に「イタリア国誕生日」、4月13日に「英国誕生日」、5月19日に「英国即位日」、5月26日に「アメリカ建国独立日」を祝って、それぞれ祝砲が発射されたと記されている。


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