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資料よもやま話2
神奈川台場よもやま話
−残された記録を読む−
火薬の暴発で死者が出た
明治13年(1880年)6月24日の『東京横浜毎日新聞』は神奈川台場で火薬の暴発事故がおこり、1人の砲兵が死亡したことを伝えた。事故が発生したのは6月21日で、この日はイギリスのビクトリア女王が即位して43周年を迎えた日であった。そのため、神奈川台場から祝砲が発射され、その後、大砲の内部を掃除していた際に事故が発生した。
新聞記事には「去る21日は英国女帝即位の当日なれば正午12時、神奈川砲台にても祝砲を放ちしが同所詰合の砲兵佐藤某は、かの砲の内部を掃除せんと働きおりたる折柄、火薬の筒内に残りおりて急に暴発したれば哀れや佐藤は身体微塵に砕けて死しおりたるが、この物音を聞きつけて駆け集りたる人々も詮方なく昨日、同駅宗光寺内へ埋葬したり」と記されている。
こうした記事は時々新聞に掲載され、祝砲・礼砲は空砲ではあったが、かなり危険な作業をともなうものであったようだ。神奈川台場の場合、戦争に利用されたことはなかったが、多くの兵士が事故で死傷したことは記憶に留めておきたい。
台場の廃止について
神奈川台場は明治32年(1899年)2月に廃止された。その後の台場跡地の様子については、昭和14年(1939年)に栗原清一と加山道之助が『神奈川台場遺構調査報告』の中で報告している。最後に、その一節を紹介して筆を擱きたい。
神奈川台場は明治32年廃止された。爾後は其必要ある都度、横須賀軍港から軍艦を横浜港に回航して礼砲発射の任に当ることとなり台場は更に大蔵省所管に移った。其後十数年間、其保存乃至利用途も構ぜられず放置の止むなきものとなっていたが工場地帯造成の為、神奈川町海岸地先埋立に依り大正初年より逐次埋築され本台場も遂に其中に数へられ、台場は全部鉄道省用地となり、大正6年6月開通の鶴見より高島町に至る貨物線路が布設された。これが為、前面河川に沿ふ部分の石垣を残存するのみとなり、其余は全く埋築されて現在に至っている。
(西川武臣)