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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第96号
2007(平成19)年4月25日発行

表紙画像
企画展
横浜浮世絵
−よみがえる幕末・明治の町づくり−
横浜浮世絵を代表する絵師とその作品
−貞秀・2代広重・3代広重の作品から−
資料よもやま話
生糸商茂木商店と二人の旧大村藩士
−森謙吾(もりけんご)と長與専斎(ながよせんさい)−
新収資料コーナー(4)
幕末横浜英駐屯軍士官旧蔵写真帳
資料館だより

展示余話
伏島近蔵(ふせじまちかぞう)関係資料について

(4)頌徳帖(しょうとくちょう)

資料4 頌徳碑(しょうとくひ)除幕式(伏島靖豊(ふせじまやすとよ)氏所蔵「頌徳帖(しょうとくちょう)」より)
頌徳碑(しょうとくひ)除幕式

  ちょうど新富士見川が完成した年の暮れ、伏島近蔵(ふせじまちかぞう)の郷里では、彼の藪塚・横浜での功績を讃える記念碑(頌徳碑 しょうとくひ)が建立された。記念碑は、伏島近蔵(ふせじまちかぞう)が敷地と建築費を寄付した新田高等小学校の跡地に建てられた。【資料4】はその除幕式の際の写真で、このほか当日寄せられた祝辞などを張り込んで「頌徳帖(しょうとくちょう)」と題する一冊の折本仕立てに綴られている。これらは加藤一太郎『伏島近蔵翁(ふせじまちかぞうおう)』(同、1962年)で紹介されている。

資料5 板垣退助(いたがきたいすけ)等が寄せた祝辞(伏島靖豊(ふせじまやすとよ)氏所蔵「頌徳帖(しょうとくちょう)」より)
板垣退助(いたがきたいすけ)等が寄せた祝辞

  資料5は「頌徳帖(しょうとくちょう)」に貼り込まれた祝辞で、板垣退助(いたがきたいすけ)をはじめ、林有造(はやしゆうぞう)・大江卓(おおえたく)・中島信行(なかじまのぶゆき)ら自由党幹部からのものである。伏島近蔵(ふせじまちかぞう)は中央政界の自由党との結びつきを強める一方、神奈川県会や横浜市会では「地主派」のリーダーとして、関内地区を地盤とする巨大貿易商たちの「商人派」に対抗していた。

資料6 石川養造(いしかわようぞう)等が寄せた祝辞(伏島靖豊(ふせじまやすとよ)氏所蔵「頌徳帖(しょうとくちょう)」より)
石川養造(いしかわようぞう)等が寄せた祝辞

  資料6も同じく除幕式に際して寄せられた祝辞で、石川養造(いしかわようぞう)・鈴本稲之助(すずもといねのすけ)・山崎弥五郎(やまざきやごろう)・脇沢金次郎(わきざわきんじろう)ら、地主派の県議・市議から寄せられたものである。

(5)葬列の写真

資料7 客舎を出る伏島近蔵(ふせじまちかぞう)の棺(伏島靖豊(ふせじまやすとよ)氏所蔵)
客舎を出る伏島近蔵(ふせじまちかぞう)の棺

  明治33年(1900年)に立憲政友会が発足し、板垣退助(いたがきたいすけ)は政界の第一線を退くこととなったが、伏島近蔵(ふせじまちかぞう)は四男の増蔵(ますぞう)を板垣のもとに書生として遣わすなど、その交友関係は依然として続いていた。明治34年(1901年)5月には北海道の宗谷郡猿払村(そうやぐんさるふつむら)の約500万坪の土地を牧場として開拓する計画を立て、板垣の腹心であった西山志澄(にしやまゆきずみ)・栗原亮一(くりはらりょういち)・齋藤珪次(さいとうけいじ)等と北海道庁に申請、6月に許可が下りた。翌7月、伏島近蔵(ふせじまちかぞう)は栗原・西山・齋藤らと現地視察に赴いたが、八月七日稚内の宿舎にて脳溢血で帰らぬ人となった。【資料7】は客舎から火葬場へと向かう葬列の写真である。騎馬の左に齋藤、1人置いて西山、栗原が並んで棺を見送っている。

  彼の遺骸は海路で横浜へと運ばれ、8月17日会葬者3000名が参集して葬儀が執り行われた。『横浜貿易新報』は当日の様子を「故人の旨に従ひ極めて質素なりしが、会葬者中には知名の人々多く六七十名の壮士が一定の服装にて柩に従ひ行きしは人目を惹きたり」と伝えている。

  伏島近蔵(ふせじまちかぞう)については、これまで加藤一太郎氏や群馬県・旧薮塚本町で伝記的研究が刊行されているが、横浜での事績については未解明な部分が多く、今後さらなる調査・分析を進めていくことにしたい。

  末尾ながら、貴重な資料・情報を提供していただきました伏島靖豊(ふせじまやすとよ)様、伏島司(ふせじままもる)様、伏島治(ふせじまおさむ)様、手島仁(てじまひとし)(群馬県立歴史博物館)様に深謝申し上げます。

(調査研究員 松本洋幸 まつもとひろゆき)


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