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資料よもやま話
生糸商茂木商店と二人の旧大村藩士
−森謙吾(もりけんご)と長與専斎(ながよせんさい)−
1 はじめに
大村藩は、現在の長崎県大村市にあった石高2万7973石余の外様小藩である。この小藩から、維新後横浜の生糸商茂木商店と深いかかわりもつ人物が2人出ている。横浜七十四銀行(よこはましちじゅうしぎんこう)取締役兼支配人森謙吾(もりけんご)と、内務省衛生局長長與専斎(ながよせんさい)である。
2 第七十四国立銀行と森謙吾
森健吾 『京浜実業家名鑑』(1911年刊)より
明治11年(1878年)7月、横浜に設立された第七十四国立銀行は、創立時は横浜の大商人をはじめとする特定大株主で構成されたものではなかった。政府官金は既設の第二国立銀行が多く取り扱ったため、銀行券の発行によって資金調達せざるをえない経営体質をもっていた。
明治14年政変で松方正義が大蔵卿に就任し、維新以来の出超財政を引き締めるべくデフレ政策を強行した。紙幣整理と日本銀行の設立、兌換銀行券の発行によって通貨の統一がはかられた。第七十四国立銀行も、発券業務を失い、預金銀行へと転換せざるをえない。また高島遊廓移転に際しての土地買収に失敗していた。初代茂木惣兵衛は、明治15年1月頭取に就任し、改革を始めた。
のちに横浜七十四銀行支配人兼取締役に就き、同行の末路をみとることになる森謙吾は、惣兵衛の改革をになうために入行したようである。森家古文書を今日に受け継ぐ関口光章氏「ある大村藩士の維新前後の日々」(私稿)によれば、森家は禄高20石で、謙吾は嘉永5年11月23日(1853年1月2日)生まれ。慶応4年(1868年)7月戊辰戦争で奥州へ従軍。長崎運上所・同税関勤務をへて、明治6年(1873年)8月大阪府(地券掛・出納掛)、8年3月大蔵省(検査寮・検査局)、12年4月沖縄県(出納課長心得・出納課長)につとめ、13年10月依願免官。官庁で経済畑を歩んできた森謙吾は、翌年1月から大阪の第百二十六国立銀行に幹事として入行した。
森謙吾の第七十四国立銀行入りは明治15年とされている。「七十四銀行紛乱の後を整理すべき適材として選抜せられ」と(「森謙吾君」『京浜実業家名鑑』1911年刊)あるように、手腕がかわれたのであろう。松方デフレ政策が始動し、預金銀行化と、茂木商店の機関銀行化をすすめた第七十四国立銀行の株式は、明治10年代末には、頭取茂木惣兵衛(もぎそうべい)の持ち株が総株式の20パーセント以上を占め、森謙吾自身も110株を有する株主となっている。そして業務も、横浜本店と惣兵衛の故郷にある高崎支店間を主要な資金ルートにし、横浜の商品取引に重要な役割をはたしてゆく(杉山和雄「創業期の横浜第七十四国立銀行」『金融経済』77号、1962年)。
第七十四国立銀行が、横浜七十四銀行と改称したのは、明治31年(1898年)である。初代惣兵衛は既に亡く、茶商の大谷嘉兵衛(おおたにかひょうえ)が頭取であった。森謙吾は取締役兼支配人となり、横浜を代表する銀行家として、明治40年3月以降、横浜商業会議所議員にも就いている。第一次大戦の好況で、茂木合名会社は総合商社化し、大正7年(1918年)8月横浜七十四銀行と茂木銀行は合併して、茂木が株式の八割を有する七十四銀行となった。頭取は三代茂木惣兵衛、森謙吾は常務取締役に就いた。しかし大正9年3月、恐慌が到来して茂木合名と七十四銀行は倒産。茂木家三代につかえた森謙吾の銀行家としての生涯も終わりを告げた。心中はいかばかりであったろうか。森謙吾は昭和4年(1929年)年11月に78才の生涯を閉じたが、茂木合名と七十四銀行のばくだいな負債整理は、さらに7年の歳月を要した。