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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第96号
2007(平成19)年4月25日発行

表紙画像
企画展
横浜浮世絵
−よみがえる幕末・明治の町づくり−
横浜浮世絵を代表する絵師とその作品
−貞秀・2代広重・3代広重の作品から−
展示余話
伏島近蔵(ふせじまちかぞう)関係資料について
新収資料コーナー(4)
幕末横浜英駐屯軍士官旧蔵写真帳
資料館だより

資料よもやま話
生糸商茂木商店と二人の旧大村藩士
−森謙吾(もりけんご)と長與専斎(ながよせんさい)−

3 初代惣兵衛と長與専斎

熱海梅園之図 明治20年 熱海市立図書館蔵
熱海梅園之図

  今日でも熱海の名所として知られる熱海梅園の開園は、明治19年(1886年)4月である。前年2月、熱海最大の源泉「大湯」のかたわらに、宮内省直轄の療養施設「館(きゅうきかん)」が設置された。館は大湯の蒸気を吸入して胸部疾患の治療をはかる施設であったが、その建設にあたっては、内務省衛生局長長與專斎と衛生局技師後藤新平がかかわった。館の医療効果にあわせて、精神衛生をはかるための散策コースが必要であると提案したのは、伊藤博文であった。この提案に応じるかたちで、初代茂木惣兵衛は地元の温泉業者の協力をえて梅園を造成した(『熱海市史 下巻』1968年刊)。現在も梅園内に残る巨大な石碑「茂木氏梅園記」は、梅園設置の経緯を象徴するように、篆額を伊藤博文が執り、撰文を長與專斎が残している。梅園の造成を茂木にもちかけたのは、長與專斎その人にちがいない。

茂木氏梅園記〔現状〕
茂木氏梅園記

長與専斎 明治29年 長與俊雄氏蔵
長與専斎

  日本近代衛生行政の父長與專斎は天保9年(1838年)大村にうまれ、大坂へ出て緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。医学を志して長崎でポンペ、ボードウィンらにつき大村藩医となる。明治維新により、長崎医学校学頭。明治4年(1871年)年岩倉使節団に随行、六年帰国。以後は東京医学校長、文部省・内務省衛生局長。明治10年横浜司薬場を開設して、「虎列刺(コレラ)予防心得」を起草。生涯、近代衛生・防疫行政の中核にあり、明治35年(1902年)66才で没した(「松香私志」『松本順自伝・長与専斎自伝』1980年刊)。

  初代茂木惣兵衛は、熱海梅園開園の翌明治20年8月、長與専斎が創設にあたった鎌倉海浜院の幹事にも就いている。海浜院は、由比ヶ浜海岸に、重病後回復期の保養、虚弱体質の改善、慢性の胃病患者などの保養のために設けられ、洋風建物に洋室、外国人コックによる洋食を中心とする食事、海水浴の励行などを特徴とした高級保養施設であった。院長は、横浜の医師近藤良薫。近藤は三河国出身で慶應義塾入塾後、明治3(1870年)横浜に出て早矢仕有的に実地医学を学んだ。明治6年横浜病院で診療を担当し、米国人医師シモンズに指導を受ける。明治11年野毛山に賛育病院を建て、翌12年コレラ流行に際しては地方検疫委員、同年横浜医学講習所会長となり、のちには神奈川県医師会横浜支部会長。生涯、横浜医師会のリーダーであり、加えて「金満家」としても知られていた(小玉順三『横浜医療事始め』2002年刊、『開業医立志篇(横浜部)』1890年刊)。伝染病の発生時に横浜に出張する衛生局長長與専斎と近藤が相知る仲であったことは想像にかたくない。近藤は惣兵衛が第七十四国立銀行頭取に就任した際には同行の取締役に就き、明治10年代末には、惣兵衛、箕田長二郎に次ぐ大株主であった。

  鎌倉海浜院はわずか1年の短命に終わり、翌明治21年鎌倉海浜院ホテルとして再出発している。

4 エリート長與程三(ながよていぞう)

長與程三〔明治27年8月、ニューヨークで撮影、20才6ヶ月〕 長與俊雄氏蔵
長與程三

  長與専斎は、5男3女に恵まれた。長男称吉(しょうきち)・三男又郎(またろう)は医学を究め、五男善郎(よしろう)は白樺派の作家として高名となった。大村出身の日本郵船専務岩永省一家に養子に入った四男裕吉(ゆうきち)は聯合通信社・同盟通信社社長。残る次男程三(ていぞう)は茂木商店に入った。

  長與程三は、明治8年(1875年)年2月生まれ。体が弱いことと、商人として自立させる希望をもって、父専斎が初代惣兵衛に託したようである。程三はニューヨークの商業学校に留学(学校名は不明)。学資は茂木から出たと思われる。ニューヨークで貿易事業を展開するモリムラ・ブラザーズ森村豊の甥(森村市左衛門の子)である明六から謹呈された、明治26年(1893年)年12月の日付の写真(ニューヨーク、ギャラップ写真館撮影)が長與俊雄家に残されていることから、程三のニューヨーク生活を、惣兵衛が森村に託したと推測される。程三自身は、同写真館で28年8月、「二○才六ヶ月」と裏書きした写真を撮っているので、留学は初代惣兵衛の死の前後2年くらいであったと思われる。

茂木商店員と長與程三〔後列最右〕 明治30年代か 長與俊雄氏蔵
茂木商店員と長與程三〔後列最右〕

  帰国後の程三は、茂木商店生糸部に入った。明治30年代、和装の店員のなかに一人、洋装にネクタイをしめ少し遠いところを見ているような面持ちの写真が残っている。明治30年代後半から40年代前半期のフランス勤務を終えて帰国した後、明治43年(1910年)12月、茂木家の親族である中村沢子と結婚。大正期には日本絹業聯合会組長、輸出絹物連合会副会長として活躍し、茂木合名会社理事として重要な位置にあった。茂木家60年の繁栄のなかで、長與程三のようにエリートとして重んじられた者はいない。

  繁栄をおう歌した、茂木商店をしのぶ遺産を、今日の横浜にみることはできない。毎年初春、熱海の梅の盛りを伝えるニュースは、横浜商人の繁栄と衰退の歴史が紡ぎ出す無常感をいやましに感じさせる。

(平野正裕)


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