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展示余話
伏島近蔵(ふせじまちかぞう)関係資料について
(2)受賞目録
イタリアから帰国した伏島近蔵(ふせじまちかぞう)は、不動産事業に力を入れ、関内地区に比べて開発の遅れていた関外地区の土地開発に乗り出すこととなった。イタリア滞在中に水道事業や都市の土地騰貴の様子を見聞したことがその背景となったと言われる。明治29年(1896年)に吉田川と堀割川を結ぶ新吉田川を完成させ、翌明治30年(1897年)には新吉田川と大岡川を結ぶ新富士見川の開削にも成功し、関外地区の運河網を完成させた。
【資料2】は伏島近蔵(ふせじまちかぞう)が、明治3年(1870年)以降に土木・教育・衛生など各方面へ行った寄付に対して受けた表彰を記録したものである。相生町(あいおいちょう)や伊勢佐木町(いせざきちょう)の大火の際の救民・類焼人への寄付、明治15年(1882年)コレラ流行の際の予防施薬費への寄付、戸部・太田・大岡川小学校への寄付、さらに道路橋梁費や道路敷地の寄付などを行っている様子が分かる。
このほか、近蔵(ちかぞう)の妻・コウ、息子・孝平(こうへい)の名義で受賞した目録も存在し、明治20年代に、堀割川や吉田川(伏島近蔵(ふせじまちかぞう)が開鑿した新吉田川を含む)沿いの土地を道路敷地として寄付したり、自費で地揚げ(盛り土をする)を行うなどしてたびたび表彰を受けたことが記されている。新開地の関外地区に逸早く注目して大量の土地を取得し、自ら道路・運河を整備して市街地化を図ることで地価を高めて利益を生み出し、そこで得た資金を町づくりなどの公共事業へ投資していった彼の足跡を垣間見ることができる。
(3)「財産等取調書」
また受賞目録とは別に、伏島近蔵(ふせじまちかぞう)自身がまとめた寄付・献納等の目録が存在する(「財産等取調書」)。これは明治31年(1898年)8月に伏島近蔵(ふせじまちかぞう)が、家督相続人・伏島増蔵(ふせじまますぞう)(当時11歳)の後見人を斎藤松三(さいとうまつぞう)と小山丈右衛門(こやまじょうえもん)に依頼した際に作成したもので、伏島近蔵(ふせじまちかぞう)の一族が寄付・献納・譲与した土地・建物等を詳細に調査し、将来の分配法などを定めた書類である。末尾には、磯子村のトンネル開設、関外地区の新道建設、新吉田川開鑿など、彼が携わった土地開発の様子を簡潔に纏めた記述も添えられている。
【資料3】は、その中の新富士見川の開削工事の記述である。新富士見川は幅12間、延長140間の新吉田川と大岡川とを接続する運河で、明治26年(1883年)に伏島近蔵(ふせじまちかぞう)が建議し、市会決議で市費開削と決まった。工事は明治29年(1896年)9月に着工、翌年6月に竣工した。当初約1万7000円を予定していた工費は、折からの日清戦争の影響を受けて高騰したが、斎藤松三(さいとうまつぞう)が横浜市助役に就任したこともあって、「横浜市将来の為今回設計不成(ならざる)時ハ後年如何(いか)ニ苦慮スルモ開通不相成(あいならざる)事ニて損害金二千余円の覚悟ヲ以該工事引受成功ス」と書かれている。