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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第95号
2007(平成19)年1月31日発行

表紙画像
企画展
開港150周年プレリュード(3)
−川の町・横浜ーミナトを支えた水運
企画展
消えた八つの川
展示余話
嘉永6年2月15日の添田知通
資料よもやま話1
開拓使官有物払下げに関する黒田清隆の文書
−稲生典太郎の文庫から−
新収資料コーナー(3)
同潤会斎籐分分譲住宅関係資料
資料館だより

資料よもやま話2
福島県旧梁川町とその周辺地域における『横浜貿易新報』の購読者

1 はじめに

  『横浜貿易新聞』は、 明治23年(1890年)2月1日、横浜貿易商組合の機関紙として創刊され、明治37年に『横浜新報』と合併し、『貿易新報』さらに『横浜貿易新報』 と改題する。

  貿易に関する情報を報道する同紙は、創刊当時から横浜の貿易商が、得意先に数十部まとめて送ることも多かったらしい。また、日本各地で販売されており、横浜以外の場所に残されていることもある。例えば、創刊号は、岐阜県高山市で見つかっている。

  大正期に入ってからの広告をみても「横浜市場の報道に於ては天下一品、一般記事に於て東京新聞に譲らず、故に主人は其実益に富めるを称し、主婦は其趣味の豊かなるを喜ぶ、 有益多趣味とは実に本紙のことなり」とし、さらに「普く各地に読者を有すること横浜貿易新報の如きは稀なり、是れ旅行者の屡々驚嘆する所たる也」とある。

  しかし、継続した新聞の販売及び購読者の記録を入手するのは容易ではなく、『横浜貿易新報』が読まれたと思われる蚕糸業が盛んな地域で、実際にどのように新聞が購読されていたのかを知ることは難しい。

  ところが近年、有山輝雄氏の論文「ある地域社会における新聞雑誌購読―福島県梁川町・明治期の事例―」(『メディア史研究』第15号 2003年 ゆまに書房発行)により、福島県旧梁川町(現在伊達市)で古くから新聞販売店を営んでいた阿部回春堂に、 明治末から大正初めにかけての『横浜貿易新報』の販売記録が残されていることを知った。

2 旧梁川町と阿部回春堂

  旧梁川町は福島県の最北東部にあたり、阿武隈川と広瀬川の合流する地域に発達した、水運に恵まれた土地である。江戸時代から蚕種の生産地として知られ、幕末期は蚕種や生糸取引の中心地の一つとして栄えた。横浜との接点は開国がもたらした。生糸や蚕種は茶と並ぶ輸出品であり、特に幕末から明治初年にヨーロッパで蚕の病気がはやり、日本の蚕種の需要が増えた時には、盛んに輸出された。その後も旧梁川町は、長く養蚕業の盛んな地域であった。

  旧梁川町で最近まで唯一の新聞販売店であったという阿部回春堂は、当主が代々阿部長兵衛を襲名しており、現在7代目にあたる長兵衛氏によると、安政5年(1858年)に薬舗として創業し、明治中頃から新聞・書籍の販売を始めたという。そして、大正末頃に、薬種販売業を廃業し、新聞・書籍・文房具・たばこのみの営業となった。写真1は、その頃阿部回春堂が作成した絵葉書で、左に同店が見え、店の前に5代目長兵衛夫妻が写っている。この頃は、蚕糸品評会などの記念絵葉書も作成し、販売していたようである。

  現在は、創業地とは別の場所で、朝日新聞の専売店を兼ねた書店を営んでおられる。

写真1  阿部回春堂(阿部長兵衛氏所蔵)
阿部回春堂

  有山氏は、阿部回春堂の記録のうち明治期の「新聞配達元帳」を分析し、旧梁川町という地域社会とそこに暮らした人々がその生活の中でどのように新聞・雑誌・書籍を読んでいたのかを明らかにされている。

  また、旧梁川町が蚕業中心の町であり、東京・横浜の商況を必要としたため、住民は早くから地元紙より東京の新聞を読んでいたことを指摘されている。そして、横浜における価格、貿易状況を知るために蚕業従事者が『横浜貿易新報』を購読しており、通年購読というよりは、蚕種の販売等の特定時期に横浜の動向を知ろうとしたのだろうと述べられている。 さらに、 蚕業従事者は地元紙も併読している場合が多いが、その理由として、競争関係にある福島県内の他の蚕業地域の情報を報道していたためと推測されている。

  阿部回春堂の資料は、阿部長兵衛氏が日本新聞博物館に寄託し、現在は同館が保管している。 そしてこの度、阿部氏と日本新聞博物館のご好意により、資料を拝見する機会を得たので、『横浜貿易新報』の購読者に限定して検討したいと思う。


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