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展示余話
嘉永6年2月15日の添田知通
添田七郎右衛門知通(ともみち)は、嘉永元年(1849年)亡父知治(ともはる)のあとを継ぎ、武州橘樹郡市場村の名主役についた。弱冠19歳である。 5年後の嘉永6年(1853年)10月、 24歳で川崎宿38カ村寄場組合大総代となる。アメリカからペリーが、ロシアからはプチャーチンが来航し、幕府に開国をせまった年で、世上が騒然としたさなかであった。
開国に関する幕府側の回答を待って、一時香港・マカオに退去していたペリー艦隊は、嘉永7年(1854年)1月16日、4艘から7艘に増強されてふたたび柴村(現金沢区) 沖に姿をあらわした。 そして、江戸内海を測量し、ワシントン初代大統領の誕生日に祝砲を打ち、 本牧の磯や岩に落書きをして、さまざまな示威行為をはじめた。 2月10日、応接所が建てられた横浜村で、初めて日米代表による条約交渉がもたれた。
2月14日夜、知通に川崎領海岸出役秋葉金次郎からの誘いがあった。明日の横浜でのペリー一行と幕府との応接の場に「見置」として同伴するようにとのことである。 知通が誘われた理由は、 1月に「川崎領沿海見廻取締向」の役目を仰せつけられていたことによろう。 知通自身、 アヘン戦争時の中国の事情を記した「海外新話」(嘉永2年刊、発禁)を手に入れている。地元にとどまらない広い視野を持つ若い地域リーダーとして、 幕府の役人も一目置く存在であったと考えられる。
秋葉とその従者とともに、夜半市場村の居宅を出た知通の出で立ちは、役目上許されていた羽織を着用していたものと思われる。東海道を下り、保土ヶ谷宿明神大門から戸部村をとおり、野毛山山頂にいたったのは午前6時頃。このとき、横浜に停泊中の黒船から大砲が1発発せられた。予期しない、未だ聞いたこともない大音響に、知通もびっくりした。野毛の渡船場から横浜村に渡り、畑中道を徒歩で、役人の詰め所となっている人家に到着。午前10時頃であった。それから応接所に出向いた。
艦隊の隊員一行は、 バッテイラ(短艇)24艘で横浜上陸をはたした。「音楽掛先着シ夫ヨリ鉄炮組兵士、 船将ハ跡船ナリ」。音楽隊、鉄砲隊が先着し、上官が最後に上陸した。 10日の上陸の模様は聞き及んでいたものの、知通は、「音楽ノ拍子鉄炮組ノ行列能ク其指揮合図ノ届キタル体実ニ感入ニ不堪候」と、軍楽のリズムと鉄砲組の行進の整然としたさまが強く印象に残った。
この日は、幕府への贈り物を陸揚げする日で、ペリーは上陸していない。知通が「頭取トモ言人物衣装ノ立派ナル事目覚マシキ出立チニ相見ヘ候」と認めたのは、当日の指揮をしたマセドニアン号艦長のジョエル・アボット大佐であろう。将軍への贈り物としては、4分の1スケールの蒸気機関車や電信機、救命艇、農耕機具などが、将軍御台所へは花模様刺繍の絹ドレスや香水6ダースなどが、悪天候のなか、応接所につぎつぎと運び込まれた。
降雨で昼食の弁当が遅れ、空腹にたえかねた知通は、品川台場建設にかかわり、幕府役人田中第五郎に従って横浜に来ていた大師河原村内田左五右衛門とともに飴菓子・酒店に立ち寄った。店は「異人立入ヲ恐レ戸ヲ鎖有之とざしこれあり」という状態であったが、「押テ申入酒喰致ス」、と強引に願って空腹を満たした。 一昨13日、上陸した隊員が横浜村の子どもらにパンを与え、またこの日も、小六なる者の家で麻裏草履を買うという行動に出たり、別の者が年寄役太郎左衛門家で飲酒して、西洋剣術の型を披露したりしている。 隊員のなかに艦上生活を逸脱する行動が目立ち始めた時期でもあった。
昼食を終えた知通は、ふたたび応接所に戻った。応接は午後2時頃終わり、その後艦隊一行は接待にあたっていた小笠原・真田両家の家臣の案内で近隣を「遊歩行」、四時頃帰鑑した。 知通は、応接所出役の役人とともに船で神奈川宿に渡り、午後12時頃帰宅している。
以上、「亜米利加船渡来日誌」を中心に、添田知通の嘉永7年2月15日をふりかえった(本文は、石野瑛編『亜墨理駕船渡来日記』1929年刊、に翻刻されている)。ペリー来航は、農民にとっても興味深い事件で、黒船情報を記録した古文書は少なくない。ただ、農民身分で応接所まで出張した者は少なかったことは間違いない。
「亜米利加船渡来日誌」(添田有道家蔵)2月15日の部分。
横浜村の応接所にいたるまでが記録されている。
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「亜米利加船渡来日誌」は、知通が後日情報を集め、日付を追って記録・編さんしたもので、応接所出張時には知るはずもないような事実が詳細に記されている。開港後の「横浜表別段御取締」としてとられた攘夷派監視体制や農兵取りたて、明治初期の多摩川からの砂利採掘事業、木樋水道の開設、さらには神奈川県地租改正事業の実現など、幕末・維新期を卓抜した行動力で駆け抜けた知通の生涯において、青年期に、まさに歴史の転換を肌で触れることができたこの一日は、限りなく大きな経験であったにちがいない。その記憶を明確なかたちで留めおくために、「亜米利加船渡来日誌」が記されたと思えるのである。
(平野正裕)