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企画展
消えた八つの川
埋立か? 存続か?
ゆれ続けた日ノ出川
8日ノ出川は、吉田川の千秋橋と鶴ノ橋の間から、埋地七か町と呼ばれる不老町・翁町・扇町等を貫き、中村川の翁橋脇に通ずる運河のことである。 明治6年に生まれた埋地七か町とほぼ同じ頃に誕生した運河で、全長は約603メートルである。両側には石材店・木材店・運送店などが立ち並んでいたが、中村川や吉田川に比べて川幅が狭く、水深も浅いことから、 大型船舶の航行には適していなかった。 このため、 日之出川埋立期成会が組織されるなど(『横浜貿易新報』明治43年5月13日)、その利用価値を疑問視する声は明治期から存在していた。
関東大震災後の大正13年(1924年)、東京・横浜の復興計画を立案していた政府の復興局では、山下公園・野毛山公園・神奈川公園とともに、日ノ出川を埋め立てて公園化する案が検討された。
これに対し、日ノ出川を利用する薪炭商・製材商・材木商・造船鉄工商・青物商や回漕業を営む人々は、埋立反対を訴えて市会議員に働きかけを行い、同年2月6日の横浜市会で同川の存続・改修を求める決議案が全会一致で可決された。
一方、寿町・松影町・吉浜町・扇町・翁町・不老町・長者町などの沿岸住民等46名は、日之出川埋立期成同盟会を組織し、日ノ出川は20〜30トンの小船(通常の艀は100トン前後)でさえ航行が困難で、その利用価値は一部の「特殊業者」に限定されていること、この川によって町が分断されており、交通が阻害され、寿小学校の敷地が狭小なまま置かれていること、また財政的にも埋立工事の方が護岸工事・浚渫工事・橋梁復旧工事よりも安価である、などと復興局原案の支持を訴え、数万枚のビラを市中に配布するなど運動を続けた。この住民の声は市会を動かし、再度日ノ出川埋立をめぐって議論が行われたが、わずかの差で埋立反対に決した。
それから約30年後の昭和28年(1953年)4月より日ノ出川の埋立工事が行われた。鉄道やトラック輸送などの陸上交通機関が整備される中、日ノ出川の舟路としての利用価値は薄れ、第二次大戦後は横浜大空襲の残骸・瓦礫の投棄処分地に指定される程であった。埋立工事は約3年間かけて終了し、その跡地は横浜市道・関外六五号線となっている(左近士宗一氏のご教示による)。
(松本洋幸)
写真2 昭和期の新吉田川の風景 江逸画 当館蔵
写真3 日ノ出川 絵はがき 当館蔵
写真4 昭和40年代の派大岡川埋立工事 横浜市広報課提供