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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第95号
2007(平成19)年1月31日発行

表紙画像
企画展
開港150周年プレリュード(3)
−川の町・横浜ーミナトを支えた水運
企画展
消えた八つの川

明治初期に消えた小松川
埋立か? 存続か?
ゆれ続けた日ノ出川
展示余話
嘉永6年2月15日の添田知通
資料よもやま話1
開拓使官有物払下げに関する黒田清隆の文書
−稲生典太郎の文庫から−
資料よもやま話2
福島県旧梁川町とその周辺地域における『横浜貿易新報』の購読者
新収資料コーナー(3)
同潤会斎籐分分譲住宅関係資料
資料館だより

企画展
消えた八つの川

伏島近蔵が築いた新吉田川と新富士見川

  明治3年(1870年)に始まった吉田新田南一つ目沼埋立の進行と併せて、吉田新田を東西に縦断する運河計画があった。 南五つ目あたりで南下して中村川と交差し、堀割川に抜ける計画であった(地図1の345に相当)。このうち、派大岡川から分岐して一つ目・二つ目を縦断する3吉田川の整備は進められたが、それより西側への開削工事はほとんど進行していなかった。

  この未完成の運河を完成させるべく、明治19年、伏島近蔵は3吉田川と5堀割川とを結ぶ運河の開削を神奈川県に願い出た。伏島近蔵は群馬県の出身で、慶応元年(1865年)に横浜へ居を構えて以来、蚕種・ラシャ綿等の輸出に成功して富を築いた。後に埋地七か町の一つ・万代町に居を構え、開港以来の生糸売込商や外国商館の立ち並ぶ関内に比べて著しく発展の遅れていた吉田新田地域の振興を密かに企図していた。

写真1 伏島近蔵『伏島近蔵一代記』より
伏島近蔵

  伏島の最初の出願は認められなかったが、5年後の明治24年12月、彼は再び仲田信亮との連名で、運河開削を願い出た。明治26年に免許の下付を受け、翌年9月から起工、約一年半後の明治29年2月に工事の竣工を遂げた。こうして生まれたのが4新吉田川で、千秋橋から長島橋・横浜橋・日本橋を経由し、途中で南下して池下橋と久良岐橋の間で中村川に合流する全長1412.5メートルの運河である。

  伏島はさらに翌年に、新吉田川と大岡川とを結ぶ6新富士見川の開削も完成させた。新富士見川は、新吉田川の分岐点から北上して大岡川と合流する全長235.5メートルの運河である。
  このように、伏島は、根岸湾から横浜市街地の中心部に至る舟路の整備を進める一方、利用価値の低い7富士見川などの河川を埋め立てて市街化を図った。中村川と大岡川に囲まれた旧吉田新田地区の人口は、わずか20年の間に7.5倍に膨らみ(明治34年時に約9.5万人)、生活必需品を扱う店舗、地所家屋貸付業者、建築・土木関係業者、遊興施設などが集住し、港都横浜を支える後背地として急速に発展していった(斎藤多喜夫 「明治三〇年代の横浜市街地」『横浜都市発展記念館紀要』2、2006年所収)。こうした伏島の功績を記念して、彼の没後40年にあたる昭和15年(1940年)、新富士見川と新吉田川が交差する駿河橋付近に、伏島の肖像を刻んだ顕彰碑が建てられた。

  新富士見川の完成から約80年後の昭和53年(1978年)、横浜市が進める六大事業の一環として吉田川を埋め立てて完成した大通り公園が開園し、伏島が心血を注いだ新吉田川・新富士見川も姿を消すこととなった。伏島近蔵の顕彰碑も、吉田新田の鎮守・お三の宮日枝神社境内に移設され、関外地区の発展を遠望するかのようにひっそりと立っている。


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