国庫改修に向けて
池谷等の「神奈川川」計画から約15年後の明治20年1月、今度は吉田村(現在港北区)の笈川新兵衛が発起人となって、神奈川県知事宛に「新川開通草案」を提出した。その内容は、小机村より篠原村・六角橋村を経て滝の川に至る、全長1里10町(約5km)、幅8間(約14.5m)の分水路を開く計画で、工費22,245円というものであった(「山室宗作家文書」713)。その後、測量・設計や関係機関・住民との話し合いなども進んだようであるが、笈川の死去などにより、この計画も日の目を見ることなく終わった(『鶴見川水害予防組合史』)
鶴見川はその後も氾濫を繰り返し、明治40年代には毎年のように大規模な水害が中下流域を襲った。神奈川県は地元の村々と協力して、鶴見川中流の川幅を拡げる工事を行い、流下能力を高めようとしたが、依然として洪水の被害は止まなかった。流域の人びとは、鶴見川の治水工事には莫大な費用がかかり、村・県単位の小規模な改修工事では効果が挙がらないとして、国による直轄工事を求める運動を、明治44年から開始した。この運動をもとにして、大正10(1921)年に鶴見川改修期成同盟会が成立し、さらにその組織を強化した鶴見川水害予防組合が昭和9(1934)年に発足した。
こうした地道な運動が実を結び、昭和14年11月、念願の国による鶴見川の直轄工事が実現した。この工事では、川幅を100〜125mに拡げ、また水深を19〜40mに深く掘り下げるなどして、流下能力を毎秒450〜650立方メートルに高めることに主眼が置かれた。しかし戦時中の予算縮小や労働力不足により、工事の成果は充分に挙がらなかった。
都市河川時代の治水対策
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