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館報「開港のひろば」バックナンバー


資料よもやま話
戦前期の外国人ジャーナリスト群像

  今春、当館では企画展示「ある知日家アメリカ人と昭和の日本ドン・ブラウン文庫1万点の世界」で、当館所蔵のドン・ブラウン・コレクション(図書・新聞雑誌・文書)を紹介した。同コレクションの旧蔵者ブラウン(Don Brown 1905-80)は、戦後、GHQの民間情報教育局(CIE)情報課長を長くつとめた。

  出陳した資料の中には、展示が終わった後、新たな事実がわかったものもある。今回紹介する写真1もそのひとつだ。出陳時、写真についてわかっていたことは少なかった。ブラウンが戦前の日本で約10年間、英字紙『ジャパン・アドヴァタイザー』のジャーナリストをしていた頃のものだということ、押印から撮影者は『東京朝日新聞』の記者だということ、そして右から3番めの左手をあごに当て真剣な表情で報告を聞いている人物が、ブラウン(5)本人であるということだけであった。


定例外国人記者会見を撮す

  ところがその後、昭和8〜12年に外務省情報部長をつとめた天羽英二の資料集(『天羽英二 日記・資料集』第2巻)を調べている時に、よく似た写真が1葉、掲載されているのが目にとまった。天羽は、昭和9年におこなった「天羽声明」で知られる。この声明は、前年に国際連盟を脱退した日本が列強の対中国共同援助に反対を唱えたもので、内外の世論に大きな衝撃をあたえた。
天羽資料集の写真は、昭和9年の外国人記者会見時の撮影だと説明にあるが、この声明時かどうかはわからない。おもな記者の名前と所属新聞・通信社名も付されてあった。ブラウンも確かに写っていたが、名前などの記述はなかった。

  この記者会見は、情報部長のおもな仕事のひとつで、日本人記者と外国人記者とに分けておこなっていた。天羽はそのようすを戦後、つぎのように回想している(「小さきあしあと」66、『天羽英二 日記・資料集』第5巻所収)。

  情報部長の私はこのほかに毎日朝夕2回外務省担当の新聞記者団と、さらに週3回外人記者団と会見する役目があった。ここで発表された私の談話は外国では『スポークスマン談』として報道されたが、外人記者は私の会見が終わるとあるものは直ちに本社に打電、あるものは帝国ホテルのロビーに集っていま得た情報について話合っていたものである。また、このロビーには東京に在る外国大公使館の情報関係者も集っていて記者からきいた情報を各々大公使に報告していたようだった。

  …記者会見は情報部長の部屋でやった。大テーブルをはさんで記者団が集り、各々勝手な質問をするのだ…

「開港のひろば」第86号
2004(平成16)年11月3日発行

企画展
リバーサイドヒストリ
ー鶴見川ー幕末から昭和初期までー
企画展
幻の鶴見川分水路計画
展示余話1
「蓮杖&金幣−横浜写真ことはじめ−」展
開港後最初の来日カメラマン
−P. J. ロシエの足跡−
展示余話2
「ペリー来航と横浜」展
ペリー直後のアメリカ船来航
−漂流民勇之助の帰国−
資料よもやま話
戦前期の外国人ジャーナリスト群像

定例外国人記者会見を撮す
中堅記者、ブラウン(5)
ヒュー・バイアス(1)
パーシー・ホワイティング(3)
M. J. コックス(4)
その他の外国人ジャーナリスト
閲覧室から
新聞万華鏡(17)
内国勧業博覧会と新聞
資料館だより

  天羽資料集の写真と、ここに掲載したブラウン・コレクションの写真1を見比べてみると、この写真もまた、ある日のこの記者会見風景にまちがいないことがわかった。記者たちの視線を一身に集めた手前左端の横顔の人物が、天羽(2)であった。

  では、ブラウン以外にどんなジャーナリストがこの場にいたのだろうか。写真画面に写っているだけでもブラウンを入れて18名のジャーナリストを数えることができ、ひとりの女性記者の顔もみえる。


写真1 天羽外務省情報部長と外国人ジャーナリストの記者会見風景 昭和10年前後





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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