企画展 リバーサイドヒストリー
鶴見川ー幕末から昭和初期までー
鶴見川絵図 享和3(1803)年9月 池谷光朗氏蔵
鶴見川は、東京都町田市にその源流を発し、横浜市青葉区・緑区・都筑区・港北区・鶴見区を経て東京湾に注ぐ全長42.5kmの一級河川です。現在、約200万人の人口を抱えるこの川の流域では、全国に先駆けて「総合治水対策」や「鶴見川水マスタープラン」が策定され、国内有数の「都市河川」として注目を浴びています。鶴見川がこのような「都市河川」として意識されるようになったのは、今から70年ほど前のことです。
それ以前の鶴見川の様相は今日とは全く異なり、人びとは川とともに暮らしていました。上流の鉄・市ヶ尾(現在、青葉区)や中流の小机・新羽(現在、港北区)などでは貴重な農業用水として利用されていました。また中流から下流にかけては、米や肥料、地域の特産品や生活物資などを運ぶ川船が頻繁に往来していました。昭和初期の調査によれば、長さ6m前後の小型の肥料船(下肥を運搬する船)から、煉瓦などの工業用物資を運ぶ20m程度の大型船まで様々な形状の船が、一年間でのべ2万隻以上も航行していたようです。こうした川船が停泊する場所は河岸と呼ばれ、河口から中流までの到るところにありました。太尾河岸、綱島河岸、市場河岸などの地名を冠したもの、竹河岸などの取扱物資から名付けたもの、また川金河岸や本山河岸などの人名・寺院名を取ったものなどがあり、それぞれ独自の景観を見せていました。
その一方で、鶴見川は「あばれ川」として大規模な氾濫を繰り返してきました。上の絵図は、享和3(1803)年、鶴見川流域33か村の農民が、幕府に治水工事を願い出た際に作られた絵図です。この絵図には、鶴見川の洪水の大きな原因と考えられていた「岩瀬」(現在、鷹野大橋付近)(1)と「がら洲」(現在、潮見橋付近)(2)と呼ばれる二つの岩盤が描かれています。しかし鶴見川の治水工事はなかなか進まず、明治後期から昭和初期にかけて、沿岸の人びとは連携して、国や県に対して大規模な改修工事を行うよう陳情運動を続け、ようやく昭和14(1939)年に念願の国による直轄工事が開始されます。この間、明治40(1907)年、43年、昭和13年と大規模な水害に見舞われますが、流域の人びとは川沿いの土地や資金を提供して、川幅を拡くしたり、堤防を強化する工事を独自に行うなど、この川の改修に心血を注いできました。国の直轄工事は、戦時下での経費縮小や労働力不足などで充分な成果を挙げることはできず、根本的な治水工事は昭和50年代の大規模浚渫工事を待たなければなりませんでした。
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