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館報「開港のひろば」バックナンバー


展示余話2
「ペリー来航と横浜」展
ペリー直後のアメリカ船来航
−漂流民勇之助の帰国−


アメリカ船の来航

  ペリーが横浜で日米和親条約を結び、箱館・下田に回航したのち、最終的に下田を出帆したのは嘉永7年(1854)6月2日のことだった。

  それからわずか半月後の6月17日、浦賀沖にまたもや異国船が現れた。船はペリー艦隊が碇泊地にしていた金沢の「夏島前」(アメリカ碇泊地)まで入り込んでようやく停船した。浦賀奉行所与力の中島三郎助らが問いただすと、カリフォルニアから日本人漂流民の送還のために来航したという。船名は「レジ、ビールス」、船長は「ビュルロウス」、乗組員19人、その他日本人1人だという(『続通信全覧』船艦門、漂流、「米国舩越後ノ漂民護送浦賀ニ渡来下田ニテ受領一件」)

  このアメリカ碇泊地近くに乙艫御陣所を構えていた武州金沢藩でも、またまた異国船対策に追われたことが史料にみえる。

  金沢藩では17日、ただちに乙艫浜の御陣所へ防備の人数を派遣する。しかし翌々日の19日、陣所前に碇泊したアメリカ船は浦賀へと走り去ったため、浦賀奉行から退陣の達しがあり、翌20日に引き揚げた(横浜市歴史博物館『武州金沢藩(六浦藩)関係史料集II』所収の史料15「嘉永7年6月17日 異舩渡来中御用向留帳」および斉藤司氏による解説を参照)。

  この史料の19日の記事によれば、この船は4月7日にカリフォルニアを出帆、途中サンドイッチ島(ハワイ)に寄港して来航した。乗っていた日本人は「越後国岩舟郡エダガエ村八幡丸善兵衛舩水主拾三人乗、内同所之勇之助弐拾三才嘉永五年九月朔日松前箱建出帆、夫より漂流」。つまり漂流民は越後国の八幡丸の勇之助、23歳だった。

「開港のひろば」第86号
2004(平成16)年11月3日発行

企画展
リバーサイドヒストリ
ー鶴見川ー幕末から昭和初期までー
企画展
幻の鶴見川分水路計画
展示余話1
「蓮杖&金幣−横浜写真ことはじめ−」展
開港後最初の来日カメラマン
−P. J. ロシエの足跡−
展示余話2
「ペリー来航と横浜」展
ペリー直後のアメリカ船来航
−漂流民勇之助の帰国−

アメリカの新聞記事に登場
下田での受け取り
資料よもやま話
戦前期の外国人ジャーナリスト群像
閲覧室から
新聞万華鏡(17)
内国勧業博覧会と新聞
資料館だより




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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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