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館報「開港のひろば」バックナンバー


アメリカの新聞記事に登場

  この勇之助は、その前年の秋、ニューヨークの絵入り新聞『イラストレイティッド・ニューズ』に登場していた。
ニューヨークではこの年、万国産業博覧会が開かれていた。ロンドンの万国博覧会に倣ってクリスタル・パレス(水晶宮)という壮麗な建物が建設され、ピアス大統領を迎えて盛大に開会式典が催されている。『イラストレイティッド・ニューズ』も特集号を出してその盛大さを伝え、その後も各国の出品物を次々に紹介していた。

  その関連記事のひとつに「日本からの珍品」という2頁の記事があり、日本の品々が豊富な挿絵とともにとりあげられた(図)。それが遭難した八幡丸の勇之助がもたらしたものだったのである。


『イラストレイテッド・ニューズ』1853年10月8日


 新聞記事によれば、八幡丸は1852年9月、蝦夷から新潟に向かう途中遭難し、7ヵ月半の漂流後エマ・パッカー号に救助されたが、そのとき乗組員13人のうち生存していたのは勇之助ただひとりだった。サンフランシスコに着いてみると、以前に遭難して救助された栄力丸の彦蔵(ジョセフ・ヒコ)と次作がいて、その通訳で身元や遭難の状況が明らかになった。

  ちなみにヒコの『アメリカ彦蔵自伝』では、漂流民の名は重太郎となっており、当館刊の『ペリー来航と横浜』でもそう書いたが、帰国時の記録からみると、勇之助が正しいと思われる。

  新聞記事で紹介されたのは、ひらがなの一覧表、日本文字の見本(一部上下が逆になっている)、金銀銅貨、羅針盤、椀、絹の反物、足袋、帯などだった。実物を見て、詳しく描写しているが、やはり初めて目にした品物だけに、「日本の靴〔足袋〕の先がふたつにわかれている理由がよくわからない」といった説明がついている。しかし記者は、この品々は今回直接日本からもたらされたものであり、クリスタル・パレスのオランダ部門に陳列されているオランダ国王の日本コレクションより興味深い、と記している。

「開港のひろば」第86号
2004(平成16)年11月3日発行

企画展
リバーサイドヒストリ
ー鶴見川ー幕末から昭和初期までー
企画展
幻の鶴見川分水路計画
展示余話1
「蓮杖&金幣−横浜写真ことはじめ−」展
開港後最初の来日カメラマン
−P. J. ロシエの足跡−
展示余話2
「ペリー来航と横浜」展
ペリー直後のアメリカ船来航
−漂流民勇之助の帰国−

アメリカ船の来航
下田での受け取り
資料よもやま話
戦前期の外国人ジャーナリスト群像
閲覧室から
新聞万華鏡(17)
内国勧業博覧会と新聞
資料館だより

下田での受け取り

  さて、勇之助を送還してきたアメリカ船はどうなったか。「ペルリとの約条」により、下田・箱館以外では取り扱わないから、下田へ廻航するようにという日本側の再三の説得に、船は6月26日、ようやく下田に入港した(『続通信全覧』同前)。日米和親条約が早速適用されたことになる。

  翌々日の6月28日、勇之助は玉泉寺で船長ホルース〔下田での記事ではホルース、またはフルスとなっている〕から日本側に引き渡され、下田町役人に預けられた。同所での吟味によれば、勇之助は越後国岩船郡板貝村の出身、八幡丸(六百石積廻船)で松前を出帆後遭難したが、ただひとり救助された。サンフランシスコで日を送るうち、かねてペリーと懇意の船長フルスがペリーに面会に日本へ行くと聞いて、帰国の望みを伝えたところ、承諾してくれたと述べている。船長フルスはペリーとはすれ違いになったが、勇之助は1年9カ月ぶりに帰国を果たすことができた。

(伊藤久子)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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